神辺本陣(東本陣跡)

  福山市神辺町大字川北に過ってあったという「神辺本陣跡(東本陣跡)」です。 
* 神辺東本陣は、1807(文化4)年神辺大火で焼失し、のち再建されていたそうですが、往時を偲ぶ大きな門が1998(平成10)年解体されたそうで、いまは何もありません。
東本陣跡の表示板も破れ、聞かなければ分からない状況です。
東本陣は、本荘屋菅波家が営んでおり、菅茶山の父・樗平の出所であり、1809(文化6)年11月伊能忠敬(1745-1818)が九州測量の途次、泊まった事もあるそうです。
広島県重要文化財・史跡  神辺本陣(西本陣)  昭和44(1969)年4月28日指定
  江戸時代の神辺は、備中高屋宿と備後今津宿の中間に位置する宿駅として栄え、ここの本陣は三日市の尾道屋菅波家が営んでいた西本陣跡です。
(東本陣は七日市の本荘屋菅波家が営んでいました)
尾道屋菅波家は代々酒造販売業も営み、寛文年間(1661-1669)筑前黒田家の本陣役を務めた事に始まります。
延享5(1748)年に建てられた本屋(平屋建瓦葺)は、御成の間、上段の間、三の間、札の間、玄関、敷台に至るまで、参勤交代の諸侯が宿泊した当時の面影をそのままにとどめています。札の間には諸侯の投宿時門前にかかげた木札が数多く伝わっています。店住居は天保2(1831)年建築、背後には馬屋も残り、安政2(1855)年の建築という正門と木造瓦葺の塀もあわせて、江戸時代の本陣施設がよく保存されています。
2009年乗り放題切符で訪ねた神辺町でした。主目的は頼山陽(1780-1832)が塾頭をしたこともある菅茶山(1748- 1827)が開いた「廉塾」に行ってみることでした、廉塾から菅茶山之墓へ行こうと路地を曲ろうとした時に、半分破れた標識をみたのです。
字数から[東本]陣跡だなと思ったのです。
先に見学した(西)本陣からすれば東に当り、対面には「七日市荒神社」が鎮座していることからこの辺りが、説明板にあった七日市という地区だなと思ったからでした。
☆平成18(2006)年3月1日深安郡神辺町は福山市と合併して福山市神辺町となっています。  10.06.01裕・記編集

09.10.12撮影
広島県福山市神辺町大字川北583

09.10.12撮影

09.10.12撮影



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神辺本陣(西本陣)
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「旧神辺町」編





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