|
西区三瀧山の三滝寺境内に建立されている「第二次世界大戦戦争犯罪者慰霊十三重塔」です。 |
碑文は「戰争裁判ニヨッテ死刑ニ處セラレ又ハ獄死シタ広島県出身ノ五十六柱ノ英霊ニ供養スル為ニ廣島縣白菊遺族会ガ発起シテ・・・(中略)・・・印度代表判事パール博士ハツトニ戰争裁判ノ不法ヲ論ジ又戦勝國ノ日本占領軍総司令官デアリ、日本国内デ行ワレタ戰争裁判ノ最高責任者デアッタ マッカーサー元帥ハ終戦後■■ニ際シ米國ヲ訪問シタ重光外務大臣ニ對シ「戰争裁判ハ間違イデアッタ當時自分モ内心コレニ反對デアッタ」ト語ッタ一方日本ノ民主國会ハ戰争裁判ノ犠牲トナッタ刑死者及獄死者ノ遺族ニ對シ戦死者ノ場合ト同様ノ待遇ヲ興スル法律ヲ議決シタ又コレ等ノ英霊ハ靖國神社ニモ合祀セラレルコトニナッタ」
|
|
 |
広島県戦争受刑者世話人会・広島県白菊遺族会建立 昭和30(1955)年10月26日賀屋興宣撰 |
|
賀屋 興宣(かや おきのり:1889-1977) |
大蔵官僚、政治家。広島市鷹匠町(現:中区本川町)出身。広島一中、東京帝国大学法科大学政治学科卒。
1937(昭和12)年(第一次近衛内閣)大蔵大臣。1941(昭和16)年太平洋戦争開戦時東条内閣で大蔵大臣。1948(昭和23)年極東国際軍事裁判で終身刑(A級戦犯)、1958(昭和33)年赦免。同(1958)年自民党公認総選挙初当選。自民党(右派)議員、日本遺族会会長。1972(昭和47)年政界引退。 |
|
この碑文石碑の他に昭和28(1953)年11月吉日に設置された石碑があります。
上記碑文石より先に建立されています。碑文の文字は薄れていますが。 |
「十三重塔平和観音建立趣旨」と刻まれた石碑です。
よくよく見ながらわからない文字もありましたが上記と同じ内容に思われますが、次の文章も読み取れました。
「・・・・戦勝国によって一方的に報復手段により裁かれた私達の兄弟や夫や子供、最后まで世界の平和と国の安泰を念じつゝ散り□□された霊を慰め史上に再び悲惨な戦争と戦犯という矛盾とを繰返さぬよう大慈悲の観音菩薩の法灯を人類の一人一人の心に□□□ながら悪夢を転じて幸いに導くという夢たがえ観音を十三塔内に納め永劫の平和を祈念いたしたく御結縁をお願いする次第であります」悲願主 広島白菊会 |
2007年三瀧寺発行「安藝之國 三瀧寺観音参詣案内圖」に書かれたここで取り上げた『第二次世界大戦戦争犯罪者慰霊十三重塔』を知り撮影しました。
碑文がこの塔根際に設置されていましたので読んでみました。その一部が上記です。
戦争犯罪者の遺族にも戦死者と同様の保障をといういう趣旨のように解釈しました。(わたしは)遺族に対するいわれなき差別などは許されるものではないとの思いはあります。建立趣旨文を読めば、その中には、再び戦争というものを起こしてはいけないとあります。
多くの国民を戦争へ巻き込み、近隣諸国の人々の多くを戦争に巻き込んだ当事者の責任は回避できるものではない事を考えながら、昔々、フランキー堺主演でみた「わたしは貝になりたい」というTVドラマを思い出していました。 |
2015年久しぶりに三滝地区に建立の碑を撮影しました。
この十三塔も撮影しましたので、掲載画像を追加し、この頁を更新しました。 |
15.07.27.更新 07.12.25裕・記編集 |