地獄極楽の木(原勘兵衛の墓)

  この頁では広島に伝わる「地獄極楽の木」について取り上げました。
※この物語の主人公・原勘兵衛可政のお墓が海雲寺に(移設)建立されています。
浅野長晟(1586-1632)の家臣に原勘兵衛可永(はらかんべいよしなが)という武士がいました。
浅野長晟が藩主(1619-1632)として移った安芸国に従ってきましたが重い病気にかかりました.。しかし跡継ぎの子がいませんでしたので、甲斐国で僧になっていた弟・可政(よしまさ)を呼び寄せ養子にしました。可永はやがて死去し、可政が再び武士として原勘兵衛可政として原家を継ぎました。
可政は僧であっただけに信心深く、会う人ごとに「死後にはあの世に必ず行き、地獄、極楽もきっとある」といつも云っていました。しかしそれを聞いた人はたいがい「いや、そんなものは経や説教の中だけのことで本当にあるはずがない」とか「あるかもしれないが、まだ誰も自分の目で確かめたことではない」などと云い可政の話を信じて聴く人はほとんどありませんでした。可政はそれが残念で仕方ありませんでした。
時は過ぎ、可政は歳をとり病の床に就き死を悟ったときに、妻子や友人を枕元に呼び「わしもあの世に行く日が近づいた。地獄、極楽があるかはっきりさせたいと思う。自分の目で地獄、極楽をみたら、確かめたという証拠に、50日以内に墓石の下から木を生やす。もしも、芽がでてこなかったら、地獄、極楽はなかったと云うことだ」と云い残しました。しばらくして可政は死去し、海雲寺に葬られました。死去して35日経ち人々は法要を営むために海雲寺に出かけました。と、どうでしょう。可政の言葉通り、墓石の下から青い木の芽が出ているではありませんか、その若芽はぐんぐん大きくなり大木に育ちました。人々は、この木を「地獄極楽の木」と呼んで、後の世まで大事にしていましたが、1945(昭和20)年8月6日原爆で(残念なことに)焼けてしまいました。
※この伝説は、日本標準社版「広島の伝説」藤井秀昭先生著‘地獄極楽の木’の話を参考にして編集しました。
交流ウォーク・藤井先生に「地獄極楽の木」という広島の伝説があるのを知っていますか?と尋ねられましたが(わたしは)知りませんでした。この海雲寺に伝わる伝説だと云うことでしたので、訪ねたのです。しかし、なにもなかったと藤井先生に話したら、本堂前にある五輪塔が原勘兵衛の墓ですよと教えていただきました。
 09.12.25裕・記編集

09.11.14撮影
広島市西区三滝本町1-15-20  (海雲寺の原勘兵衛)

08.12.29撮影



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