|
南区北大河町の真幡神社に建立されている「文政・天保 大瀉功労者之碑」です。 |
ここ大河と江波や草津とは、江戸時代(寛政:1789-1801以降)に大小あわせて十数回におよぶ漁業権の争いがありました。
いずれの争いも漁業で生活を営む村であることからそれらの争いは広島藩を巻き込む激しいものであったそうです。
特に、この碑に刻まれている文政(1818-1830)、天保(1830-1844)における争いは長く大河住民に語り継がれた事件でした。両事件とも、三代十郎兵衛の得た海上権の分割を江波が要求することにはじまり、事件に介入した広島藩の調停案にも官命にも、十郎兵衛の得た海上権の書附をたてに従わず、ついに両事件とも時の総代は百数日にわたり獄につながれることとなりました。
この碑は、両事件における総代の労をねぎらいその功労にたいして感謝を込め記念したものだそうです。 |
|
2008年交流ウォークのときに三代十郎兵衛碑の隣に建立されている「文政・天保 大潟功労者之碑」にも目がいきましたので、撮影しました。しかし、由来はわからなかったのですが、広島市教育委員会発行「広島の石碑」にこの碑が紹介されていたので、由来がわかりこの頁を編集しました。 |
2011年も撮影していました。2014年のいまになりましたが頁を更新しました。 |
14.08.17更新 08.03.07裕・記編集 |