灘尾弘吉揮毫の額」 と 昭和6年当時の「別れの茶屋の絵

  西区己斐本町にある“別れの茶屋”の店舗内に展示の「灘尾弘吉揮毫の額」と「昭和初期の“別れの茶屋”の絵」をこの頁では取り上げました。
今(2010)年交流ウォークで、この別れの茶屋を訪ねた時に、己斐にお住まいのTさんがお店の方を御存じで、店の中に昭和時代初期の別れの茶屋を描いた絵があるからみせて頂こうとなったのです。
以前店外から撮影していた灘尾弘吉書の額を近くからみましたので、「昭和庚子新春」茶屋の主人「山崎君」の為に書いた額ということが分かりました。そして御主人が店奥の調理場で餅を作っておられましたが、ゆっくり見ていってくださいと云って頂きました、ので見ると、昭和6(1931)年に下村儀三さんが描かれた絵でした。
昭和庚子は昭和35(1960)年です。
灘尾は、1965(昭和31)年はじめて文部大臣になっており昭和35年当時は大臣ではありませんでしたが文部大臣を3回やっていました。
10.06.04更新   05.03.02裕編集

10.05.08撮影
広島市西区己斐本町3-9-11 別れの茶屋

10.05.08撮影
灘尾弘吉揮毫の額
昭和6(1931)年当時の「別れの茶屋の絵」
  この絵をみると、昭和6(1931)年作者の下村さんは旭山商業学校2年生だと書いてありました。
また、昭和6(1931)年当時は旧・西国街道沿いに街道松が健在だったようですね、
そして別れの茶屋と鉄道の位置関係から広電(書かれた当時は広島瓦斯電軌と云っていた)と思うので、電車が見えていたと(わたしは)思うのですが、別れの茶屋北側の国鉄を走っていたSL(蒸気機関車の印象が強く残り)を描かれたのかな?と考えたのですがはっきりはわたしには分かりません。
1897(明治30)年9月25日山陽鉄道(1906年国有化される)広島駅〜徳山駅間開業
1922(大正11)年8月22日広島瓦斯電軌(1942年広島電鉄)己斐町(現在:広電西広島)〜草津間開業
1921(大正10)年(財)旭山中学校設立、1928(昭和3)年商業学校を併設、1933(昭和8)年経営難で閉校

10.05.08撮影
昭和6年頃の別れの茶屋附近 

10.05.08撮影
「旭山商業学校、〃中学校 講堂」  「草津からの魚売」  「別れの茶屋 名物もち」  

10.05.08撮影



「その他」編



広島ぶらり散歩へ
別れの茶屋
  灘尾弘吉揮毫額
  別れの茶屋附近の絵
広電)別れの茶屋踏切





SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送