つうげんやま(いわ)
通玄山(岩)
  西区己斐中にある「通玄山(通玄岩)」です。
1654(承応3)年隠元禅師が瀬戸内海から見える山を通玄と名づけました。その後、広島藩士の寺西織部信之がその山の自然石に通玄山と刻みました。今ではその自然石を通玄石と呼ぶようになっています。  広島市立己斐中学校
この地の岩に彫刻した寺西織部信之は浅野長晟の家臣であった父とともに広島に来ました。宗家とは別に御小姓となり、累進して御年寄役となりました。のち隠居して晩年己斐に住んでいました。
かねてより深く禅宗に帰依していたことで、禅門の師である臨済宗禅林寺和尚・虚櫺を通じて黄檗宗開祖・隠元禅師の直筆「通玄山」の書を得ました。これを加加桑山の巨岩に彫刻*しました。この岩の毅然たる姿は一部補強を要したそうですが昔の面目を保っています。
「通玄」という言葉には『禅の極地』という意味があるそうです。
西区役所区政振興課発行「己斐ぶらり旅絵図」によると1674(延宝2)年に彫ったとしています
隠元(いんげん:1592-1673)
江戸前期の禅僧。黄檗宗(おうばくしゆう)の開祖。明の人。諱:隆叙。諡:大光普照国師。
1654(承応3)年来日、1660(万治3)年に将軍家綱から宇治に土地を与えられ、黄檗山万福寺を創建。唐様の書風を伝えた。著「普照国師広録」など。
  隠元豆(いんげんまめ)
隠元が来日した際に日本に持ち込んだため、その名が付いたとされています、一説には現在の「フジマメ(藤豆)」だという説もあるようです。
マメ科の一年生作物。南アメリカ原産。多くはつる性。葉は広卵形の小葉三個からなる複葉。花は白色または淡紫色の蝶形花で、葉腋から出た花穂上に数個つく。豆ざやは線形で細長く、未熟果のうちにさやごと、また熟した種子を食用にする。季語は秋。
2006年交流ウォーク下見時この通玄山と刻まれた岩を知りました。
改めて書く事でもないのでしょうがわたしはものを知らないな〜と、この説明板を読んだときはわからなかったのです、インゲンマメの由来なんて事を考えもしませんでした。
2012年に訪ねた時、通玄岩の後側から撮影していました。撮影画像を整理している2015年になりましたが、画像を追加し頁を更新しました。   
15.03.23.更新    07.04.03裕・記編集

06.10.04撮影
広島市西区己斐中3-9

06.10.04撮影

12.04.21.撮影
通玄岩を後よりみました

12.04.21.撮影



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