(三良坂平和美術館)常設展示室

  三次市三良坂町三良坂の「平和美術館常設展示館」をこの頁では取り上げました。
平和美術館展示は、三良坂町出身画家・柿手春三(かきてしゅんぞう:1909-1993)の作品展示を中心とした常設展示室(館)と、企画展示室(館)の2室で構成されています。
平和を希求し創作活動に取組んでいた柿手作品は、反戦・反核を訴えた作品が多く、「平和・人権」の尊さをわたしたちに語りかけているといわれ、また自然破壊への反対運動にも取り組んでいた柿手は、海田湾埋立て反対にかかわる作品も数多く描いており、柿手作品が常設展示されています。 さらに、柿手が画家を志して上京していた頃の「池袋モンパルナス」※といわれる時代の仲間の作品もあわせて常設展示の構成に加えられています。
柿手春三 (かきてしゅんぞう:1909-1993)
画家。広島県双三郡三良坂町大字長田生まれ。県立三次中学校。
1928(昭和3)年画家を志し上京。1932(昭和7)年豊島区長崎東町雀ヶ丘アトリエ村に住む。
1940(昭和15)年病気治療で帰郷、広島市内の病院で手術。
1941(昭和16)年三次高等女学校の美術教師。
1946(昭和21)年三次文化協会結成、民主化運動を行う。
1949(昭和24)年第13回自由美術展に「アジアの森」出品。会員に推挙される。
1952(昭和27)年県立海田高校転勤、安芸郡船越町に転居、後観音高校、西条農業高校(1970年退職)。
1974(昭和49)年海田湾埋立反対運動「海田湾を囲む住民連合の代表」。
1978(昭和53)年田湾埋立反対訴訟原告代表、自由美術協会退会。
1984(昭和59)年第32回東京平和展に「燃える元安川」出品。
1989(平成元)年ひろしま海と島の博覧会・尾道会場に「はげ山のある島」招待出品。
1992(平成4)年『広島の画家100人展』へ「どっこい生きている被爆の樹」招待出品。
昭和のはじめから敗戦頃まで、池袋周辺にいくつもの「アトリエ村」があり、美術を志す人たちのために多くの貸しアトリエが建ち並び、「村」を形成していたました。それは、パリに憧れ西洋美術の影響を敏感に受け止める芸術の前衛の街であり、パリのモンパルナスにならって「池袋モンパルナス」と呼ばれていました。
それぞれ「すずめヶ丘」「桜ヶ丘パルテノン」などと呼ばれ、「桜ヶ丘パルテノン」は多い時で70軒ものアトリエがあり、まだ名もない若い画家や彫刻家、その他様々な芸術家が住みつき、夜な夜な池袋駅周辺の飲み屋に繰り出し、街には芸術と猥雑の入り交じった不思議な活気が漂っていたそうです。
資料は、池袋モンパルナスの会事務局の資料を参考にしました
広島ぶらり散歩「わが町付近」編を編集しだした時に、海田湾埋立て反対運動があったことを知ったのですが、ここ平和美術館で柿手先生の経歴を見て(わたしが故郷広島に帰ってくる前とはいえ)『1974(昭49)年海田湾埋立反対運動に立上がり、海田湾を囲む住民連合の代表。1978(昭和53)年田湾埋立反対訴訟原告代表。』をされていたことをはじめて知りました。
1973(昭和48)年広島県と企業団が広島市矢野沖の海田湾150万uを埋立鋼材・木材流通団地を造る工事の説明会を開いたことにはじまる工事反対の住民運動。
県は1971(昭和46)年埋立が決定しており漁業補償も終わっているとして進めようと、反対運動があるにもかかわらず、1976年国に埋立申請をし、国は1978(昭和53)年埋立を認可した。
1984(昭和59)年「広島東部流通団地(海田湾埋立)」は竣工しました。
09.04.14裕・記編集

’09.04.07.撮影
広島県三次市三良坂町三良坂2825 平和美術館常設展示館

’09.04.07.撮影
柿手春三略年譜板

’09.04.07.撮影
「反核の球」 と  「柿手春三像」沖田利紀1999(平成11)年制作

’09.04.07.撮影
(マッチ棒で作ったオブジェ)反核の球  1997(平成9)年制作
久保俊寛(くぼ・しゅんかん:呉市焼山出身:1941-  ) 

’09.04.07.撮影
湖に沈む古城  丸木位里(1901-1995)1978(昭和53)年制作

’09.04.07.撮影

’09.04.07.撮影
(玄関ホール展示) 「SINCE 8.6. 45」  花木英明



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