(明神社境内の)佐々木星峡先生寿碑

  安佐北区可部の可部明神社に建立されている「佐々木星峡先生寿碑」です。
佐々木星峡先生は天保11(1840)年医師・佐々木元良の長男として生まれた。名は省吾。
はじめ、末田氏の三亦舎(さんえきしゃ)に学び先生の代行を務めるほどになった。はじめ、沼田郡久地村の粟谷氏が開いた塾で教員を務めたがのち可部に帰り、家塾を開き子弟の教育に当った。明治5(1872)年太政官布告第214号学制でその塾を提供し小学校としました。その後、自宅に塾を設け遷革舎と名付け子弟の教育に当った、その教育は清廉を旨とし実践を伴わない理論を排しました。
門弟はこの地方の政治、経済、文化の興隆に貢献しました。
この碑は、先生之顕彰を表すために門弟により明治37(1904)年1月建立されました。撰文は仙臺處士 岡千仭
仙臺=仙台。  處士=処士(しょし)民間にあって仕官しない人
(おか せんじん(ちたて)
岡千仭:
(1833-1914)
漢学者。仙台藩士・岡蔵治の五男。
七歳の時(仙台)藩校養賢堂に入る。江戸に遊学、1852(嘉永5)年昌平黌に入学。その後、大坂の双松岡塾開塾に学ぶ。
1867(慶応3)年仙台にもどり、養賢堂教授。
明治維新後上京、大学中助教に任官。1872(明治5)年文部省・十一等出仕。東京府書籍館幹事。1881(明治14)年(病気)退官。私塾「綏猷堂」経営、全国からの子弟を教育。
佐々木省吾の資料は、可部カラスの会発行「わがまち可部」(@500円/冊)を購入してそれを参照しました。
筆の形をデフォルメ(変化させた)した碑で、このような形の碑を(わたしは)はじめてみました。
わたしがこの碑をみて一番の関心を持ったのは碑文の最後に仙台処士・岡千仭 撰と刻まれた所でした。
なぜ仙台(幕府軍側であった仙台藩、広島も一応は幕府軍ではありましたが)の人物がこの碑の撰文をと思ったのです。帰宅後NETで検索すると、仙台の人で、維新後ですが東京で「綏猷堂」という塾を開いた事を知りました。
可部の人・佐々木省吾との接点は今のところ(わたしには)分かりませんが、そういえば2004年に宮島でみた誓真大徳頌徳碑、1898(明治31)年撰文が岡千仭だった事を思い出したのです。
こちらの碑が1904(明治37)年ですので、宮島(厳島神社、光明院)繋がりだったのかもしれないとも思いましたが。
10.07.18.裕・記編集
    関連頁:(宮島の)誓真大徳頌徳碑

10.04.03撮影
広島市安佐北区可部2-38 (可部明神社)

10.04.03撮影

10.04.03撮影

10.04.03撮影



「広島ゆかりの人たちの石碑など」編



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