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尾道市東土堂町の千光寺公園“文学のこみち”に建立されている「緒方洪庵歌碑」です。 |
軒しげくたてる家居よ あしびきの 山のおのみち道せまきまで |
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名は章。備中足守の人で医学に志し江戸に下って坪井信道、宇田川玄真らに師事し更に長崎に於て、研修すること三年29歳のとき大坂(大阪)で開業して洪庵と号した。名声甚だ高く生徒、患者は門に満ち大坂を通る大名の必ず診察を受けたという。足守藩の侍医となりついで幕府の侍医を命ぜられ法眼に叙せ1862(文久2)年の初夏尾道に来遊したときの作である。 |
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緒方洪庵 (おがたこうあん:1810-1863) |
江戸後期の蘭学者・医者・教育者。備中(岡山県)の人。本姓は佐伯。名は章。字は公裁。通称は三平。別号に華陰、適々斎。1831(天保2)年江戸で坪井信道(蘭医:1795-1848)に入門。
長崎で医学を学び、大坂で医業のかたわら蘭学塾(適塾)を開いて青年を教育、門人には大村益次郎(兵学者:1824-1869)、福沢諭吉(教育家:1835-1901)らがいる。1862(文久2)年幕府にまねかれ、奥医師と西洋医学所頭取をかねた。種痘の普及にも尽力し、日本における西洋医学の基礎を築いた。著「病学通論」「人身窮理小解」など。 |
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「文学のこみち」を下ってきて9番目の碑が林芙美子文学碑で、次の10番目がこの緒方洪庵歌碑でした。
緒方洪庵という人物を(わたしは)どこかで聞いた人物なのではと思いましたがその時は思い出されないまま、はじめて聞いた人物かと思ったのです。しかし、帰宅後、(広島)市内、禅林寺の三宅董庵の墓、種痘ノ碑でその名が刻まれていたことを思い出しました。 |
11.04.08裕・記編集 |