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中区小町の本照寺に建立されている「阪井虎山の墓」です。 |
阪井虎山 (坂井虎山:さかい こざん) (1798−1850) |
江戸後期儒学者。広島に生まれる。東派(儒学者・とうは)の子。名は公実、諱は華。通称・百太郎、また臥虎山人、虎山などとと号す。
東派、頼春水(儒学者・頼山陽の父 1746-1816)に学ぶ。1825(文政8)年父と並んで藩学教授に抜擢される。1837(天保8)年江戸に遊学、古賀ドウ(イ同)庵、松崎慊堂(1771-1844)、佐藤一斎(1772−1859)らと交流。史論・文章にたけ、家塾百千堂を興す。著書「杞憂策」「論語講義」等。 |
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2006年5月交流ウォークのときにご住職が居られて、阪井虎山の事をお聴きしましたが、それまで広島生まれのこの儒学者のことを(わたしは)知りませんでした。
二葉の里の饒津神社に設置してある原爆被災説明板の近くに坂井虎山先生之碑が建立されていますが、字が違いますので気にはしていなかったのですが、よくみると碑文の中に阪井とありましたので同一人物ということがわかりました。 |
江戸時代の儒学者・阪井虎山のお墓を、稲生武太夫のお墓のこと、ご住職に説明していただきました。
お話を聴くまで、阪井虎山のことは知りませんでしたし、稲生武太夫のお墓の事も知りませんでした。 |
08.07.24追記 06.11.28.裕・記編集 |