宮本武蔵腰掛石

  福山市丸之内の備後護国神社に安置されている「宮本武蔵腰掛石」です。
宮本武蔵腰掛石の由来
元和元(1615)年大阪夏の陣において、武蔵は、三河刈谷三万石城主水野日向守勝成の陣に属し参陣する。寛永年中(1624-1644)武蔵は福山城に勝成を訪う。 武蔵の養子三木之助は水野家中、中川志摩之助の三男なり水野家ニ番家老中山将監は、大阪陣中におけるよしみにより、武蔵を自邸において饗應その時、武蔵が将監庭園の庭石に腰を掛けたのが、武蔵腰掛石として伝承されていた。水野氏断絶改易となり、阿部氏入封、それ以後将監屋敷は、阿部家第ニ家老下宮氏の屋敷となる。明治四(1871)年廃藩後、下宮氏はこの屋敷を引拂うにあたり、この石の由緒によりこれを阿部神社に寄進したものである。
 -原文・平井隆夫-  鷹の羽会
みやもとむさし
宮本武蔵
1584-1645
江戸初期の剣豪。美作(みまさか:現・岡山県)の人という。名は政名、号は二天。
諸国を修業して二刀流を創始し、吉岡清十郎、佐々木小次郎(?-1612) を破ったことで名高い。水墨画をよくした。水墨画「枯木鳴鵙(げき)図」、著「五輪書」
みずのかつなり
水野勝成1564-1651
江戸時代初期の大名。三河国刈谷の生まれたとされる。備後福山藩初代藩主。
元和5(1619)年備中西南部と備後南部で福山藩10万石を与えられたが、当初の神辺城に代えて幕命で西日本の幕府側拠点として瀬戸内海に近い福山に新たな城(福山城)と城下町を築いた。
☆水野氏は、1698(元禄11)年第5代・勝岑(かつみね)が、2歳で死去し改易となりました。
あべまさくに
阿部正邦
1658-1715
江戸時代の大名。武蔵国岩槻藩5代藩主、丹後国宮津藩主、下野国宇都宮藩主、備後国福山藩(阿部氏)初代藩主。1710(宝永7)年備後福山藩(10万石)に転封された。
☆阿部氏は、1869(明治元)年第10代・正桓(まさたけ)の版籍奉還まで続きました。
交流ウォーク会長が(以前に来た時)宮本武蔵腰掛石があったと話されたので気にしていたから、備後護国神社をお参りした後、来た道とは違う方向の石段を下りていた時に見ましたので撮影しました。
話を聞いていなかったら素通りしていたかもしれません。
09.06.31裕・編集

09.06.06.撮影
広島県福山市丸之内1-9 備後護国神社

09.06.06.撮影

09.06.06.撮影

09.06.06.撮影



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