頼山陽詩碑不識庵機山ふしきあんきざんを撃つの図に題す)

  竹原市本町の頼山陽広場に建立されている「頼山陽詩碑(不識庵機山を撃つの図に題す・碑)」です。
















































































































































































  不識庵は、越後の上杉謙信(1530-1578)、機山は甲斐の武田信玄(1521-1573)で共にその法号です。
「川中島」の合戦は、頼山陽の日本外史によれば天文22(1553)年、天文23(1004)年、弘治2(1556)年3月、同(1556)年8月、永禄4(1561)年の5回にわたって行われました。
平成18(2006)年1月14日建立 竹原頼山陽顕彰会
川中島の合戦
戦国時代末期の1553(天文22)年〜1564(永禄7)年、武田信玄と上杉謙信の川中島(長野市南部、千曲川と犀川にはさまれた、合流点付近の地名)における合戦。数度にわたって交戦したが、雌雄を決し得なかった。
  ここで取り上げた詩碑は、頼山陽像の根際に建立されている「不識庵機山を撃つの図に題す」の詩碑です。
漢文不得意のわたしでも、鞭聲粛粛夜過河(べんせいしゅくしゅくよるかわをわたる)という出だしは知っていました。頼山陽がいう川中島の合戦が5度にわたり戦われた年は、現代の辞書にある年代とは多少違っているようでした。
09.09.07裕・編集

09.06.30撮影
広島県竹原市本町1 (頼山陽広場)

09.06.30撮影

09.06.30撮影



「文学碑など」編



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「(安芸の小京都)竹原」編





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