中川出来太郎之碑

  大竹市元町の道路沿いに建立されている「中川出来太郎之碑」です。
  大日本國粋會廣島縣本部長
中川出来太郎之碑
    従三位勲一等 床次竹二郎書
大日本国粋会: 1919(大正8)年11月、河合徳三郎、梅津勘兵衛、倉持直吉、青山広吉、篠信太郎、西村伊三郎、中安信三郎が中心となり、原敬内閣の内務大臣・床次竹二郎(政友会)を世話役に、右翼の頭山満を顧問に迎えて、結成されました。
大日本国粋会は、土建業者を含む博徒の全国的な右翼団体で、超党派的純国家主義思想団体として、また、伝統の侠客道を根本信条として行動することを原則としていました。
創立当時、総裁は伯爵大木遠吉、会長は村野常右衛門、理事長は中安信三郎が務め、会員数60万と称していました。
(とこなみたけじろう)
床次竹二郎:
(1867*-1935)
明治〜昭和時代前期の官僚、政治家。薩摩(鹿児島県)出身。帝国大学卒。
内務次官,鉄道院総裁などをへて1914(大正3)年政友会から衆議院議員(当選8回)となり、原・高橋両内閣の内相。1924(大正13)年政友本党総裁。民政党顧問をへて1929(昭和4年)政友会に復帰、1934(昭和9)年党議に反し岡田内閣に入閣したため除名。
今回の大竹ぶらり散歩の計画をたてた時、(山口県)JR和木町から国境の大和橋を渡り、小瀬川沿いに上流に行いって広島新四国八十八ヶ所霊場第四番薬師寺に行くようにしたのです。
そろそろ薬師寺だなと思った時にみた石碑でした。国粋会と刻まれていましたので、国家主義思想団体は大きな石碑を建立してその思想を誇示出来た時代の広島県本部長だった中川出来太郎は大竹のこの辺りの人物だったのだろうと(わたしは)考えたのです。
この「中川出来太郎之碑」で国粋会広島県本部長と思っていた人物でしたが、この後みた1882(明治15)年建立の「大河原記念碑」に刻まれた大竹村村長・中川出来太郎、そしてその後大瀧神社でみた1924(昭和13)年建立の「支那事変 氏神参道改修記念碑」には町長として名が刻まれていましたので、長いこと大竹の長を務めていた人物だった事を(わたしは)知りました。
 11.07.26裕・記編集

11.06.02.撮影
広島県大竹市元町4-4-12付近

11.06.02.撮影

11.06.02.撮影
日本紙業株式会社 1913(大正2)年8月28日日本紙器製造株式会社設立。1925(大正14)年11月土佐紙と合併、「日本紙業株式会社」に社名変更。
1997(平成9)年10月1日日本紙業と十條板紙が合併、日本板紙株式会社に社名変更。

11.06.02.撮影



「広島ゆかりの人たちの石碑など」編



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中川出来太郎之碑
(大竹市元町4丁目)道標
  (中川出来太郎之碑関連)
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大河原記念碑
(大瀧神社)氏神参道改修記念碑


「大竹市」編





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