グラバーは坂本竜馬(1836-1867)など倒幕の志士らとの交流を通して幕末から明治維新の政治情勢に深く関わっていた。
1863(文久3)年には当時の禁を侵して伊藤博文(1841-1909)や井上肇(1836-1915)ら長州藩士5名をひそかに英国へ留学させる手助けを行うなど新生日本誕生にとって多大な貢献をしていたということができる。 |
1868(明治元)年日本と外国との初めての共同事業である高島炭鉱が、グラバー商会と佐賀藩との間で始められた、高島炭鉱は西洋の近代化設備を導入した日本最初の炭鉱設備であり、当時外国産の石炭と比べても良質であるといわれた。
また南山手から高島の事務所まで日本で初めて私設電話をひいた。 |
日本初の蒸気機関車「アイアン・デューク(鉄の公爵)」を上海で購入し、現在の市民病院から大浦川附近まで約400mに及ぶ線路を敷設し国産の石炭を燃料に公開運転を行った。日本最初といわれる新橋〜横浜間が開通したのはこの7年後の1872(明治5)年のことであった。 |
グラバーが三菱の傘下にはいったのはグラバー商会が倒産したのち1881(明治14)年三菱商会が高島炭鉱を買い上げてからである。「三菱高島鉱業所」の所所長、「三菱商事」の基礎を築き1885(明治18)年三菱の常任顧問という地位を確立し、岩崎弥太郎(1834-1885)弥之助兄弟のよき相談相手であった。 |
1867(慶応3)年に日本の近代造船の夜明けといえる小菅修船場(通称:ソロバン・ドック)を薩摩藩の五代才助、小松帯刀らと共にグラバー住宅から南へ約1.5km行った現在の小菅町の入り江に当時としては大規模な近代設備を完備した修船場を完成させた。1872(明治5)年明治天皇の長崎行幸があった。 |
グラバーの努力により1885(明治18)年7月麒麟麦酒の前身「ジャパン・ブルワリ・カンパニー」として発足した。発足から3年後の5月に日本で初めてのビールが世にだされた。グラバーは1887年〜1891(明治24)年まで取締役を更に1894(明治27)年まで社長を務めた。 |