(日宇那地区の)社倉

  南区丹那町に残っている「(日宇那地区の)社倉」です。
飢饉に備えて穀物を特別に貯えておくことは、中国や朝鮮にも例があり、わが国でも古代にも行われました。貢租(こうそ:≒年貢)、課役(えつき:≒租税の総称)の負担の過重な江戸時代には凶作のたびごとに飢饉が起り、18世紀頃から全国諸藩の中ではこの制度をはじめる例が見られました。
広島藩の社倉は、海田市の儒者・加藤缶楽(かとうふらく:1673〜1738)の教えをうけた安芸郡矢野村の神官・香川正直(かがわまさなお)の指導によって矢野村・押込村で1749(寛延2)年社倉法による備荒貯麦をはじめたことに由来します。その効果の大きいことを認めた広島藩では、1779(安永8)年藩内全部の村々に社倉法の実施を命じました、以後明治初年まで存続しました。
ここで取り上げた日宇那地区の社倉は、1764(明和元)年ころに建立され、1879(明治12)年まで続いていたそうですが、なにぶん伝聞であり(文献での記述がない)ということで県史跡指定がされず荒れ放題になっていたそうです。
撮影した社倉といわれる建物は、外壁が金属板(サイディングか)で(近年)改修されていますが、明治中頃までは白壁で(水没から守るため)≒1mの石積の上に建っていたそうです。
昭和3年仁保村役場発行「仁保村志」に社倉に関する記述がありました。
『明和の頃社倉法を定め各町村に麥(麦)穀を貯へ凶歉に備へしめらる、現今日日宇那説教所の東側にある建物が其の名殘なり、明治の中頃迄は繼續(継続)したるが今は其の要もなければポンプ小屋となりて、昔の俤を存せり。(實査)』昭和3(1928)年ころはポンプ小屋になっていたことを知りましたが、この社倉の記述は短いものではありましたが避けては通れぬ仁保村の古蹟だったことを強く思いました。
広島藩の歴代藩主を調べているとき、九代藩主・浅野重晟(1743-1814)が「藩財政の立て直しのため、自ら倹約につとめ、社倉法による救荒策、絹・油などの国産振興策をすすめた。」とあったのです。
このときはじめて社倉という言葉を知り辞書を引いたのでした。隣町・海田市の資料を見ているときに海田市の人として加藤缶楽(ふらく)の紹介が載っており「飢饉対策として藩主に社倉制度を提言した」ことを知りましたが、社倉そのものと思われる建物をみたのは今回がはじめてでした。
08.11.23更新   08.03.25裕・記編集

07.12.26撮影
広島市南区丹那町37-13

07.12.26撮影

07.12.26撮影
現在は明治のころの姿の残り香を探したのですが・・・
しゃそう
社倉
飢饉などの際の窮民救済のために設けられた米や麦などの貯蔵庫。隋の義倉に始まり、南宋の朱熹(しゆき)の社倉法に至り完備、明・清代にも継承された。日本でも享保の飢饉以降諸藩に普及。
ぎそう
義倉
凶年に備えて、貧富の差に応じて徴収された穀物の倉庫。また、その制度。中国隋代に始まる。日本では奈良・平安時代に設けられ、江戸時代にも幕府・諸藩で三倉の一つとして設置された。
じょうへいそう
常平倉
759年、公廨稲(くがいとう)の一部を割いて別置して諸国に設けられた倉庫。左右平準署が管轄。
米を廉価時に買い入れ、高価時に売り出し、その利を調庸運脚夫の救済にあて、同時に京中の米価調節を図ろうとしたもの。771年廃止。同種のものが、平安時代に常平所として設置され、また江戸時代にも、水戸・会津・鹿児島の諸藩に置かれた。



「建物」編



広島ぶらり散歩
(広島藩の社倉関連頁)
三次社倉
(日宇那地区の)社倉
植田艮背の墓(1651-1735)
加藤缶楽の墓(1673-1738)
浅野重晟(1743-1814)





SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送