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廿日市沖塩屋の(旧・大野町)串山に建立されている「上田宗箇遺髪塚」です。 |
上田重安 (うえだじげやす:1563-1650) |
武将、茶人。尾張国生まれ。通称は佐太郎、主水正。号は宗箇(そうこ)、是斎。
丹羽長秀(1535-1585)、明智光秀(1528-1582)に仕えた後、豊臣秀吉(1536-1598)につかえる。関が原の戦い(石田三成方についた)ののち(阿波の)蜂須賀家政(1558-1639)、ついで(紀伊の)浅野幸長(よしなが:1576-1613)にまねかれる。その後浅野家の安芸移封に伴い、広島の地に赴き、藩主別邸の縮景園等を築いた。
茶道を千利休(1522-1591)、古田織部(1544-1615)、小堀遠州(1579-1647)にまなぶ。
徳島城内庭園や紀伊粉河寺(コカワジ)の庭園などもきずいた。
1650(慶安3)年2代上田重政(1606-1650)の逝去を悲しんだ宗箇は20日間断食をして命を絶ちました。享年88歳でした。
遺言により知行地内、大野串山で荼毘に付された骨は鉄槌で砕かれ瀬戸の早瀬の海に流されました。 |
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2006年交流ウォークで市内の禅林寺に上田宗箇の遺髪塚があることを教えていただいき撮影し頁を編集したのです。
そして、2008年大野歴史ガイドの会の西尾さんに「大野陸軍病院供養塔」へ案内していただく途中ここ大野町にも上田宗箇の墓があることを教えていただいたので、訪ねてみなくてはと思ったのです。しかしこちらの方は2009年になりましたが大頭神社に行く前に立ち寄ってみたのです。 |
09.10.10裕・記編集 |
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09.09.08撮影 |
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09.09.08撮影 |
説明板にあった『荼毘に付した場所を遺髪塚として松の木を植え墓の印としました』とある松にしては小さいなと思ったのです。
初代の松は豊後国日出藩初代藩主・木下延俊が数々の合戦で宗箇に命を助けもらったといういうことで木下家当主が贈った日向松を植えたそうですが、戦争による食糧難で墓所の一部を開墾し畑にしたことや風水害などで枯れてしまったそうです。
現在の松は、2004(平成16)年大野遠鐘クラブが宮崎県から日向松を取寄せ植樹したものだそうです。 |
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09.09.08撮影 |
上田重安の遺髪塚を、後ろに建立されている重安室(知徳)墓よりみました |
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