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廿日市沖塩屋(旧・大野町串山)に建立されている「上田家墓所」です。 |
元和5(1619)年紀州藩主・浅野長晟が芸備四十二万六千五百国の大守として入国、上田宗箇も芸備転封に伴って広島に入国しました。佐西郡(現・佐伯郡)小方に知行高一万石(のち一万七千石)の知行を受け、西の毛利家に対する布石として軍事的に重要な位置に拠点を置いた、大名クラスの格式をもった地位でした。家田宗箇は、広島城下の家老屋敷(現・県庁付近(にあって、軍務、政務を精力的に行う一方、家中や藩士に武家茶を指導し、縮景園などの作庭も行っています。
慶安3(1650)年2代上田重政の逝去を悲しんだ宗箇は20日間断食をして命を絶ちました。享年88歳でした。遺言により知行地内、大野串山で荼毘に付された骨は鉄槌で砕かれ瀬戸の早瀬の海に流されました串山は宮島がよく見える30mほどの小高い丘で荼毘に付した場所を遺髪塚として松の木を植え墓の印としました。以来今日まで350余年間にわたって串山は上田家の菩提を弔う墓所となっています。 |
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2006年禅林寺に上田宗箇の遺髪塚があること知り頁を編集したのです。
2008年大野歴史ガイドの会の西尾さんに「大野陸軍病院供養塔」へ案内していただく途中ここ大野町にも上田宗箇の墓があることを教えていただいたのです。しかし、こちらの方は2009年になりましたが大頭神社に行く前に立ち寄ってみようと思ったのです。場所がわからず、大野町観光協会にTELで尋ねたのです、土地勘がないわたしにはおおまかなことしかわからず行ってご近所の方に聞くとわかるだろうということでしたので、国道2号線に出たとき通りがかりのおばあさんに尋ねたのですが、登り口がわからないとのことでしたので、この頁には(わたしなりの)案内図を編集してみました。
案内板を読んで、宗箇は息子の死を悲しみ断食して亡くなったということを(わたしは)はじめて知りました。 |
09.10.11裕・記編集 |
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広島県廿日市沖塩屋1-4付近 (旧・大野町串山) |
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上田家之墓 |
初代・上田重安(宗箇)墓 |
重安室(知徳)墓 |
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三代・上田重次墓 |
十代・上田安世墓 |
十二代・上田安敦墓 |
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十三代・上田安靖墓 |
十四代・上田宗雄墓 宗雄室(松枝)墓 |
十五代・上田元重墓 |
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09.09.08撮影 |
上田家墓所の案内標識付いていますから階段を上って行けば迷うことはないと思います。 |
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