(圓明寺の)任助法親王の ほうきょういんとう
宝篋印塔
  佐伯区三宅の圓明寺に建立されている「任助法親王(にんにょほっしんのう)の宝篋印塔」です。
任助法親王の宝篋印塔   昭和59年5月1日指定 五日市町指定重要文化財
この塔は、元文2(1737)年春広島の西福寺第8代住職・弁雅和尚の発願で建てた任助法親王の宝篋印塔です(が仁助法親王之塔と刻まれています)。塔身には金剛界四仏の梵字を各面に刻み、基礎石には墓誌銘が刻まれています。
任助法親王は、伏見宮貞敦の第四子で後奈良天皇の猶子に当ります。大永5(1539)年出※生。天文8(1539)年京都仁和寺真光院に入り剃髪して密教を学び後に仁和寺第二十世の門主となりました。故あって厳島の大聖院に留錫中発病し天正12(1584)年11月29日に入滅しました。
墓誌銘には、遺骸は円明寺に葬ったと刻まれているといいます。塔全体は花崗岩を使い、大坂の石工御影屋七兵衛の作で時代相をよくあらわしています。この宝篋印塔は、その規模、美術的壮麗さにおいても優れた塔です。
☆御陵墓は大野町赤崎(現・廿日市市宮島口)にもあり、現在は赤崎の御陵墓が正しいとされています)
※猶子(ゆうし)=親族または他人の子を自分の子としたもの。養子に類似しているが、相続を目的としない点で異なります。
※大永4(1538)年生まれとする資料もあります。お名前の読み方もこちらは「にんにょほっしんのう」と読んでいるようでした。
☆五日市町は1985(昭和60)年3月20日に消滅、現在は広島市佐伯区の一部になっています。
任助法親王のお墓のことでは、わたしはこの圓明寺のお墓を先に知りましたが、訪ねたのは宮島口の宮内庁管理の墓所(こちらに葬られているとされています)でした。こちら圓明寺も訪ねなくてはと思っていたのでした、今(2008年)回広島新四国88か所霊場スタンプラリーで圓明寺を訪ねてみようと思ったので、立寄りました。スタンプは廿日市の正覚寺で一緒にいただきましたが、圓明寺を訪ねました、宮島口の墓石よりも壮麗な宝篋印塔でした。
 08.11.06裕・記編集

08.09.28撮影
広島市佐伯区三宅5-399  圓明寺

08.09.28撮影

08.09.28撮影

08.09.28撮影
土盛:2.20m 塔高:3.75m 材質:花崗岩

08.09.28撮影
「仁助法親王之塔」と刻まれています 基礎には墓誌銘が刻まれているそうですがわたしには読めませんでした



「広島ゆかりの人たちのお墓」編


「旧(佐伯郡)五日市町」編



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(圓明寺の)任助法親王の墓
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