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中区小町の禅林寺に残っている「被爆墓石」をこの頁で取り上げました。 |
禅林寺の墓地には被爆した墓石などが残され供養されています
爆心地から≒980m (被爆当時町名は新川場町) |
2006年5月交流ウォークで訪ねた時、上田宗箇の遺髪塚、三宅董庵先生の墓、茶筅塚などを教えていただきましたが、そういうものがあるのかと漫然と聞き見ただけでした。
今(2008年1月)回撮影に行ってみようと思ったのは、三宅董庵先生(のお墓)のこと→江戸時代の種痘→当時の墓石であれば→被爆したお墓では?と自分の迂闊さに気がついたからです、拝見するとクラック(ひび割れ)がある墓石で一見被爆したものと推測できるものでした、また墓地の中を拝見させていただくと、無縁になったお墓などが塀沿いに並べられ供養されていることを知り撮影させていただきこの頁を編集しました。 |
08.01.30裕・紀編集 |
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08.01.25.撮影 |
広島市中区小町9-14 禅林寺 |
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08.01.25.撮影 |
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08.01.25.撮影 |
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08.01.25.撮影 |
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08.01.25.撮影 |
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徳川四代家綱の時代の墓石もありました |
寛文拾一辛亥(1671)年 |
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とくがわいえつな
徳川家綱
(1641-1680) |
江戸幕府第四代将軍(1651-1680)。家光の長男。幼名竹千代。
生来病弱で保科正之(秀忠の四男:1611-1673)・酒井忠清(譜代大名:1624-1681)が補佐した。政務を全て重臣任せにして、自らは「左様せい」で決裁していたことから、「左様せい様」という異名が付けられたとか。 |
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