後藤松軒の墓

  中区寺町の浄満寺に建立されている「後藤松軒の墓」です。
後藤松軒 (ごとうしょうけん:1803-1864)
広島藩医。松軒、史知、漁江と号す。藩医・松aの長子。
18歳の時長崎・吉雄塾に入り蘭学、医術を学ぶ、この時高野長英(1804-1850)とも親交を重ねる。1849(嘉永2)年3月長英が幕府の手を逃れ、宇和島から広島へ来た時当時・沼田郡新庄村の藩の薬草園(日渉園神農祠裏)に約半月間かくまった。また、同(1849)年9月三宅春齢が佐渡の医者・長野秋甫の牛痘をうけて広島へ普及を図った時も普及結社の加盟し助言を与え2ヶ月間で161人に種痘を行った。しかし藩はこの医事行為を禁止した。これらのことで、漢方医から嫌われ讒言で藩医を剥奪されたが、1856(安政3)年復職する。
2004年(現在の住居表示)三滝本町の日渉園に行った時、高野長英が匿われたことを知りましたが、その手助けをしたのがこの後藤松軒であったことを調べているうちに知ったのです。
2009年になりましたがたまたま浄満寺の墓地で松軒の墓をみましたので撮影させていただきました。
0911.06裕・記編集

09.09.12.撮影
広島市中区寺町4-38 浄満寺

09.10.03.撮影
松軒先生之墓 元治元(1864)年甲子三月五日没



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