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西区田方の海蔵寺に建立されている「山中鹿之助二女盛江の墓」です。 |
山中幸盛(やまなか ゆきもり:1545-1578) |
戦国時代の山陰地方の武将。出雲国能義郡(現・島根県安来市)生まれ。
戦国大名尼子氏の家臣。家系は宇多源氏の流れを汲む佐々木氏(京極氏)の支流で、尼子氏の一門。実名は幸盛ですが講談などで鹿之助とされたため一般には山中鹿之介で知られています。幼名は甚次郎。「山陰の麒麟児」の異名。 |
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吉和屋孫左衛門は草津に住し、魚などを商っており、そのころ(児玉周防守の居城)草津城に御用商人として出入りしていました。
1580(天正8)年ごろ周防守が仲人となり、将来見込みのありそうな孫左衛門と、当時毛利家のあずかりになっていた山中幸盛の娘の盛江(当時14歳)を結婚させたと伝わっています。
盛江との間に長男の彌右衛門と二男の孫兵衛(一説に鴻池家始祖山中幸元)をもうけました。
孫左衛門と盛江は吉和屋の菩提寺である(現在の広島市西区)浄教寺に埋葬されましたが、1937(昭和12)年にこの海蔵寺に改葬されたそうです。 |
主君尼子勝久は自害したが、尼子氏を必ず再興するという執念を胸中に山中鹿之助は自害せず、毛利氏に降った、しかし毛利輝元の下へ護送される途上の備中国合の渡(岡山県高梁市)にて謀殺されたそうです。
講談などによると、忠義の武将として描かれ、悲運の英雄としての「山中鹿之助」が作られているそうで、これが世に広く知られ、武士道を精神的な支柱とした明治以降の国民教育の題材として、「月に七難八苦を祈った」話が教科書に採用されたほどであったと。・戦後教育を受けたわたしは名前だけは知っていても、山中鹿之助は全く知りませんでしたが、海蔵寺でみたこのお墓で少しばかり知ったので、この頁を編集しました。 |
08.11.14裕・記編集 |