(大野村)日露戰役紀念碑

  廿日市市大野の報国神社境内に建立されている「(大野村)日露戰役紀念碑」です。
日露戰役紀念碑   陸軍中將従三位勲一等功二級男爵木越安綱書
                      明治四十三(1910)年十月建之
日露戦役に関して『・・大野村の現役兵、予備兵をも繰り出して犠牲者19名を出し、明治38(1905)年3月の奉天城総攻撃の際には一日に6名の戦死者を出しました。・・・19名の犠牲者の後ろには年老いて唯一人の倅を奪われた者、新婚の夢も浅くて寡婦となった者、父の顔も知らずに孤児となった者などが残されたのである』と大野町誌に記述がありました。
この日露戰役紀念碑は、浜の港の埋立地より移されたものだそうです。
(きごし やすつな)
木越 安綱:
(1854-1932)
金沢藩士の子。陸軍教導団を経て1875(明治8)年陸軍士官学校(旧1期)に入る。士官学校在学中に西南戦争出征。1883(明治16)年ドイツ留学。
日清戦争では第3師団参謀、直属上官、第3師団長・桂太郎の信頼を受ける。
日露戦争では出征時、歩兵第23旅団長。次いで第5師団長、黒溝台会戦、第8師団(立見尚文中将)を全滅から救う。1907(明治40)年9月21日西南・日清・日露の各戦役の軍功で男爵。
1913(大正2)年1月第1次山本内閣の陸軍大臣。軍部大臣現役武官制の改正に陸軍猛反対、最終的に木越が陸軍の意向に逆らい、改正に同意。6月13日予備役で軍部大臣就任できるように改正、6月24日に辞任。この改正以後陸軍の意向に逆らった木越は冷遇。陸軍大将に昇進することなく、定年前予備役に編入。1920(大正9)年から没するまで貴族院議員。
(にちろせんそう)
日露戦争:
1904(明治37)年2月から翌(1905)年にかけて、満州朝鮮の支配をめぐって戦われた日本と(帝政)ロシアの戦争。
ロシアの南下政策に対して日本は英米の支持の下に強硬政策をとり開戦。日本軍は旅順攻略奉天会戦日本海海戦で勝利を収めたが、軍事的財政的に限界に達し、ロシアでは革命運動の激化などで早期戦争終結を望み、両国は米大統領ルーズベルトの勧告をいれて、1905(明治38)年9月ポーツマスで講和条約を締結した。
広島ぶらり散歩「軍都・廣島関連施設戦跡」編を編集していますので、この報国神社根際に整備建立されている石碑の内で一番大きく(右側の)この日露戰役紀念碑から見ていくことにしました。もともと建立されていた場所は、大野歴史ガイドの会の西尾さんに教えていただきました。
09.10.20裕・記編集

09.09.08.撮影
広島県廿日市市大野5357  (報国神社境内) 

09.09.08.撮影

09.09.08.撮影



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