じょうどじ
浄土寺

  尾道市東久保町に創建されている「(転法輪山大乗院)浄土寺」です。
転法輪山(てんぽうりんざん)大乗院浄土寺は、真言宗泉涌寺派(せんにゅうじ・は)のお寺です。
推古二十四(616)年聖徳太子の開基と伝えています。
文治二(1186)年紀州高野山領大田荘の政所となり後白河院の勅願所となりました。後、荒廃しましたが、嘉元四(1306)年奈良西大寺の律僧定証上人によって伽藍が再整備され、西大寺長老信空上人ら僧百余名を招き、盛大に落慶法要が行われました。正中二(1325)年罹災しましたが、早々尾道の富豪・道蓮道性夫妻により再々興の工が起こされ、嘉暦二(1327)年本堂、のち諸堂が相次いで整えられ、現在に至っています。
建武三(1336)年足利尊氏はニ度にわたり浄土寺に参籠して戦運挽回を祈願し、三十三首法楽和歌(重文)を奉納しました。のち多くの荘園が寄進されるなど足利氏ゆかりの寺として手厚い庇護を受け、備後の代表的な大寺になりました。境内には、中世寺院建築を代表する本堂(国宝)、多宝塔(国宝)をはじめ阿弥陀堂(重文)、山門(重文)などの伽藍が広がります。
平成6(1994)年重文「浄土寺(六棟)」が加わり、さらに境内地全域が国宝本堂に追加指定された「国宝の寺」です。身代わり観音として親しまれる本尊の秘仏十一面観世音菩薩(重文)をはじめ、多くの文化財を伝えています。
JR尾道駅構内の観光案内所で頂いた「尾道市街地観光案内地図」を見ながら、海岸通りを東に向かってぶらり散歩、国道2号線の浄土寺下交差点にやってき来ました。そこから浄土寺への石段を上り、山門の処から東側の海龍寺を訪ねることにしましたので、ここ浄土寺へは、東側から境内に入りましたので、本堂よりも多宝塔が先に見えました。
多宝塔に近づく前に子安堂前で、矢形勇作:絆(慈母像)をみましたので子安堂でお参りした後、後ろを向いたところで、宮沢喜一元首相揮毫の庖丁塚をみましたので撮影しました。それから多宝塔、本堂へとまわりました。境内西側の庫裏・客殿は平成の大修理中でした。
11.05.07裕・記編集

11.03.04撮影
広島県尾道市東久保町20-28
浄土寺山門              *解説資料は、広島県教育委員会の資料を参考にしました
 指定種別:国指定、重要文化財  昭和28(1953)年11月14日平成6年7月12日(露滴庵附中門)
 構造形式:四脚門、切妻造、本瓦葺、両袖潜付
浄土寺の表門で、南北朝時代(1333-1392)に再建されたすぐれた建築です。本堂と同じ工匠の手になったのか、本堂向拝の軒の規矩と同じ規矩をもつことは、あまり時代の差がないことを示すと思われます。側面の妻の部分の板蟇股(かえるまた)に足利氏の家紋である「二引両」が表されています。

11.03.04撮影
山門

11.03.04撮影
浄土寺本堂              *解説資料は、広島県教育委員会の資料を参考にしました
 種別指定:(重要文化財)大正2(1913)年4月14日、(国宝)昭和28(1953)年3月31日、平成6年7月12日(境内地追加)
 構造形式:
桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、向背一間、本瓦
本堂(も)尾道の人、沙弥(しゃみ)道蓮(どうれん)、比丘尼(びくに)道性(どうしょう)が発願して、鎌倉時代の嘉暦2年(1327)に大工藤原友国、同国貞により建築されたものです。前面二間通りを外陣とし、うしろを内陣とする密教式平面です。和様を基調としていますが、桟唐戸(さんからど)、花肘木(はなひじき)、二斗などを用いたいわゆる折衷様式です。

11.03.04撮影
本堂

11.03.04撮影

11.03.04撮影

11.03.04撮影
本堂、阿弥陀堂、多宝塔 多宝塔
浄土寺阿弥陀堂           *解説資料は、広島県教育委員会の資料を参考にしました
指定種別:国指定、重要文化財 大正2年4月14日
構造形式:
桁行五間、梁間四間、一重、寄棟造、本瓦葺
本堂(国宝)の東隣に立つこの建物は、南北朝時代、康永4年(貞和元,1345)再建と伝えられています。
本堂、多塔宝が再建された後に建てられたものと思われます。優れた和様建築と評価されています。本尊は阿弥陀如来坐像(県重文)です。

11.03.04撮影
阿弥陀堂

11.03.04撮影
阿弥陀堂

11.03.04撮影
平成の大修理と銘打って庫裏・客殿が修理されていました



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