長州之役戦跡・碑

  大竹市本町の青木公園に建立されている「長州之役戦跡・碑」です。
 正面:長州之役戦跡
 裏面:明治百年記念    昭和四十三年1十二月 大竹市建立         *昭和43年=1968年
(碑文) 慶応2(1866)年5月28日長州藩応戦を布告。幕府の先陣井伊榊原軍ここ大竹口に陣を進め木野川を隔てて毛利吉川軍と相対す。
6月14日未明戦の火蓋は切られ両軍大竹口で激戦幕府軍敗走す。死傷者多数兵火により家財を失う者九千人にのぼる。
9月2日両軍の休戦成り、これより中央政局は西南雄藩に指導され明治維新へと動く。
ちょうしゅう
    せいばつ

長州征伐
幕末、江戸幕府が二度にわたり、長州藩を攻めた戦い。
長州征討(せいとう)、長州出兵、幕長戦争、征長の役、長州戦争、長州の役などとも呼ばれる。
(第一次)幕府は蛤御門の変を理由に、元治元(1864)年長州へ出兵したが、外国の連合艦隊の下関来襲で危機に立っていた長州藩が恭順したので戦わずに撤兵。
のち、長州藩首脳のこの処置に不満を抱いた高杉晋作(1839-1867)らの強硬派が恭順派を一掃、幕府に対抗する姿勢を示した。
(第二次)幕府は慶応2(1866)年長州再征を行ったが敗退し、撤兵。
以後、幕府の権威は急速に失われた。
* 第二次征伐では、幕府軍が小倉口、石州口、芸州口(大竹口)、大島口の4方から攻めたため、長州側では四境戦争(四境の役)と呼ばれています。
(はまぐりごもん)
蛤御門の変:
元治元(1864)年長州藩が京都に出兵し、会津・薩摩などの藩兵と蛤御門付近で戦って敗れた事件。前(1863)年8月の政変で失った長州藩の勢力回復を図ったもの。これを機に、江戸幕府の第一次長州征伐が行われた。
JR和木駅から大和橋を渡って大竹市に入り、広島新四国八十八ヶ所霊場第四番薬師寺に行くようにしていましたが、地図を見て、大和橋を渡ってすぐ小瀬川沿いを下っていくと青木神社があり、広島県神社誌に記述がありましたので、参拝しようと計画し、川沿いの道を下っていいてる時に出合ったのが(大竹)住吉神社で、参拝した後、すぐそこが青木神社であるところでみたのが、この「長州之役戦跡・碑」でした。
碑文は、明治百年も経った時に建立されたこの碑に、長州軍に敗れた幕府軍(広島藩側)の無念さを短文で表すにはどういう表現が出来るかを考えたすえの文章のように(わたしは勝手に)思いながら読みました。
 11.08.05裕・記編集

11.06.02撮影
広島県大竹市本町2-7 青木公園

11.06.02撮影

11.06.02撮影

11.06.02撮影



「古墳遺跡遺構など」編



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