(蓮光寺境内の)長束村忠魂碑 -移設前-

  安佐南区長束の蓮光寺境内に建立されている(いた)「長束村忠魂碑」です。
※2012年に移設されたことを檀家の方に教えていただき別頁で編集しています。 
安佐南区長束の蓮光寺に1913(大正2)年建立された「(長束村)忠魂碑」です。
戦後、占領政策を逃れるため一時期碑銘をセメントで埋めて保存されていましたが、1954(昭和29)年碑の修復が行われるときに原爆犠牲者も含めた慰霊碑にもしたそうです。
*2010年8月境内から近くの蓮光寺駐車場地に移設されました(別頁で編集しています)
碑表面には、忠魂碑  陸軍中将 大谷喜久蔵書
碑裏面には、(旧安佐郡長束村の戰死者)、西南戰役(1877年=明治10年)3名。台湾討伐1名。日露戰役4名のお名前が刻んであります。
大正2(1913)年10月帝國在郷軍人會長束村分會が建之。
戦後1946(昭和21)年(政府が出した学校及び公共用地等にある忠魂碑等の撤去するという方針で)この忠魂碑の撤去を迫られた地元では「忠魂碑」の文字を隠して保存したそうです。
1954(昭和29)年4月29日長束地区有志・遺族会により碑を修復するとともに、日中戦争・太平洋戦争の戦死者も合祀されました。
戦没者名簿には、軍人67名、軍属10名、義勇隊4名、徴用工4名、勤労報国隊2名、動員学徒26名、合計113名で、動員学徒+勤労報国隊+徴用工+義勇隊と軍人4名、軍属3名の合計43名が原爆による犠牲者と記録されているそうです。
大谷喜久蔵(おおたに きくぞ:1856-1923)
陸軍軍人、華族。福井県出身。陸軍士官学校卒業。教育総監・浦塩派遣軍司令官・軍事参議官・青島守備軍司令官。官位陸軍大将。勲一等功一級男爵。
1902(明治35)年6月陸軍少将進級、1909(明治42)年8月陸軍中将進級の後、同年9月3日第5師団長、1916(大正5)年11月陸軍大将進級。1920(大正9)年11月勲一等旭日桐花大綬章・功一級金鵄勲章受章、同年12月予備役編入。
第5師団長(陸軍中将)として1909(明治42)年9月〜1915(大正4)年5月だったことでこの忠魂碑の揮毫を依頼されたのでしょう。
被爆建物(山門など)が残っているというので訪ねたのです、大きな長束の蓮華松が本堂前の境内の半分くらいを占めていました。その向こうに忠魂碑が建っていましたので、裏面に碑文が刻んであるようでしたが、碑文の詳細は読めませんでした。
後日資料をみていると戦後原爆で亡くなった方々も合祀した碑となっていると記述がありましたのでこの頁を再編集更新しました。碑に関する事項は資料を参考にしました。
2012年訪ねた時この忠魂碑が無くなっていたので、驚き残念に思ったのです。
後日檀家の方に境外に移設されたことを教えていただき撮影しましたので、別頁で編集することにしました。
09.05.01更新  08.09.12裕・記編集

08.06.30撮影
広島市安佐南区長束2-1-44

08.06.30撮影

08.06.30撮影

08.06.30撮影
忠魂碑裏面



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