(旭山神社)忠魂碑

  西区己斐西町の旭山神社に建立されている「忠魂碑」です。
碑表面:忠魂碑
碑裏面:戊申戰役:戦死者故広島藩藩士長尾鐡七、明治二十七八年戰役:戦死者2名、
      明治三十三年北清事変:戦死者1名、明治三十五年:准戦死者1名、
      明治三十七八年戰役:戦死者3名・准戦死者1名、
      大正四年及至九年戰役:戦死者7名・准戦死者2名   
大正11(1922)年10月建之
碑に刻まれた戊申戰役がよくわかりません、戊申の年は、1848(嘉永元)年の次が1908(明治41)年なのです。1868(明治新)年は戊辰で、1878(明治11)年は戊寅なのです。
戊辰戦争のことかなと思ったのですが、碑文の字を間違える?かなとも思うのです。
2005年交流ウォークのときに立ち寄った時に忠魂碑が建立されていることを知りました。
旭山神社の頁から分離独立した頁にするのに2008年になって再び立ち寄り追加撮影し、碑裏をもう少しばかり詳しくみてみました。
08.10.09再編集    05.01.03裕・編集

08.09.08.撮影
広島市西区己斐西町12-10

05.01.22.撮影

05.01.22.撮影

08.09.08.撮影
ぼしんせんそう
戊辰戦争
1868(慶応4)年戊辰の年に始まり、維新政府軍と旧幕府側との間に16ヶ月余にわたって戦われた内戦。正月の鳥羽・伏見の戦いに勝利した政府軍は、4月江戸城を接収、上野にこもる彰義隊はじめ関東各地で旧幕府主戦派を討滅、奥羽越列藩同盟を結んで対抗する諸藩をも会津戦争を頂点に10月には帰順させた。翌(1867)年5月最後の拠点箱館五稜郭を陥落させ、内戦は終結、明治絶対主義国家確立への途が開かれた。
にっしんせんそう
日清戦争
1894(明治27)年8月から翌(1895)年にかけて日本と清国の間で戦われた戦争。朝鮮進出政策をとる日本は、宗主権を主張する清国と対立、甲午農民戦争(東学党の乱)を機に両国は朝鮮に出兵、日本軍は豊島(ほうとう)沖で清国軍艦を攻撃し開戦に至った。日本軍は平壌・黄海・威海衛などで勝利し、1895(明治28)年4月、下関で講和条約締結。
ほくしんじへん
北清事変
=義和団事件(ぎわだんじけん)=団匪事件
1899(明治32)年〜1900(明治33)年列強の進出に抗した中国民衆の排外運動。
山東に始まった義和団の運動が華北一帯に波及、北京の列国大公使館区域を包囲攻撃するに及び、日・英・米・露・独・仏・伊・墺(おう)連合軍の出兵を招き、鎮圧された。
にちろせんそう
日露戦争
1904(明治37)年2月から翌年にかけて、満州・朝鮮の支配をめぐって戦われた日本とロシアの戦争。ロシアの南下政策に対して日本は英・米の支持の下に強硬政策をとり開戦。日本軍は旅順攻略・奉天会戦・日本海海戦で勝利を収めたが、軍事的・財政的に限界に達し、ロシアでは革命運動の激化などで早期戦争終結を望み、両国はアメリカ大統領ルーズベルトの勧告をいれて、1905(明治38)年9月ポーツマスで講和条約を締結した。
だいいちじ
   せかいたいせん

第一次世界大戦
三国同盟(独・墺・伊)と三国協商(英・仏・露)との間の帝国主義的対立や民族的対立などを背景として、ヨーロッパを中心に起こった最初の世界戦争。
1914(大正3)年6月のサラエボ事件が発端となり、ドイツ・オーストリア・トルコ・ブルガリアなどの同盟国と、イギリス・フランス・ロシア・日本・アメリカおよび三国同盟を破棄したイタリアなどの連合国とが対戦。
1918(大正7)年11月ドイツの降伏で同盟国側が敗北し、翌(1919)年パリ講和会議でベルサイユ条約が締結された。第一次大戦。
大正3年第五師団の一部宇品から(独租借地であった)中国・青島へ出兵
大正7年8月シベリア(西伯利亞)出兵はじまる(大正11年撤兵;戦病死者≒4600人)



「軍都・廣島関連施設戦跡」編



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