旧第一検疫所桟橋跡

  南区似島町長谷に残る「旧第一検疫所桟橋跡」です。
日清戦争終結直後、陸軍が長谷(現在の似島学園の地)に1895(明治28)年6月臨時検疫所(後の第一検疫所)を設置しました。その検疫所の桟橋が現在も残っています。
広島で1894(明治27)年赤痢、1895(明治28)年コレラが大流行し宇品に検疫所を設けることにしましたが手に負えず似島に消毒所を設置することになり、1895年5月に完成しましたそれがこの検疫所でもあったそうです。
日露戦争終結後、1904(明治37)年第二検疫所が新設されました。
1905(明治38)年1月露軍捕虜千名ほどを収容するため似島捕虜収容所が長谷(現・似島学園の地)に開設されました。
にっしんせんそう
日清戦争
1894(明治27)年8月から翌(明治28)年にかけて日本と清国の間で戦われた戦争。朝鮮進出政策をとる日本は、宗主権を主張する清国と対立、甲午農民戦争(東学党の乱)を機に両国は朝鮮に出兵、日本軍は豊島(ほうとう)沖で清国軍艦を攻撃し開戦に至った。日本軍は平壌黄海威海衛などで勝利し、1895(明治28)年4月下関で講和条約締結。
にちろせんそう
日露戦争
1904(明治37)年2月から翌(明治38)年にかけて、満州朝鮮の支配をめぐって戦われた日本とロシアの戦争。ロシアの南下政策に対して日本は英米の支持の下に強硬政策をとり開戦。日本軍は旅順攻略奉天会戦日本海海戦で勝利を収めたが、軍事的財政的に限界に達し、ロシアでは革命運動の激化などで早期戦争終結を望み、両国は米大統領セオドア・ルーズベルト(26代大統領:1858-1919) の勧告をいれて、1905(明治38)年9月ポーツマスで講和条約を締結した。
似島学園から島の北側をぶらり散歩しようとしたときにみた桟橋の跡でしたので撮影しました。冊子「ふるさと似島」で旧第一検疫所桟橋跡であることを改めて確認し知りました。
『似島臨海少年自然の家の活動資料』をみていると、2つある桟橋が重火器用と軽火器用と用途別に使用されたと記述がありました、(わたしは)桟橋を撮影しながら、桟橋先端の形態が違っていることの意味がわかりませんでしたので、なるほどと思いましたので、追記しました。
10.03.12更新   09.04.23.裕・記編集

09.03.07.撮影
広島市南区似島町長谷 (に残る、旧第一検疫所桟橋)

09.03.07.撮影

09.03.07.撮影
この(東側)旧桟橋跡は、軽火器の荷揚げに使用されていたそうです

09.03.07.撮影

09.03.07.撮影
この(西側)旧桟橋跡は、重火器の荷揚げに使用されていたそうです

09.03.07.撮影

09.03.07.撮影
(いまも残る)旧第一検疫所桟橋跡と(現在の)似島学園の建物群 



軍都・廣島関連施設戦跡」編



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旧第一検疫所遺構
旧第一検疫所桟橋跡
(旧第一検疫所)火葬場の煙突
(旧第一検疫所)弾薬庫通用門跡
(旧第一検疫所)弾薬庫への通路跡
(旧第一検疫所)弾薬庫歩哨所跡
(旧第一検疫所)弾薬庫歩哨所跡No.2


 「(南区)似島」編





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