(旧第一検疫所)火葬場の煙突跡

  南区似島町長谷の似島学園の先に残されている「(旧第一検疫所)火葬場の煙突跡」です。
1905(明治38)年1月露軍捕虜千名ほどを収容するため似島捕虜収容所が長谷(現・似島学園の地)に開設され、その時火葬場が造られました。
日本に帰還したものの息を引き取ったり病気で亡くなった兵隊、捕虜として運ばれ病気などで亡くなった露軍捕虜兵士や(露同盟国の)独軍兵士、捕虜を焼いた火葬場の煙突がいまも残っています。
にちろせんそう
日露戦争
1904(明治37)年2月から翌(明治38)年にかけて、満州朝鮮の支配をめぐって戦われた日本とロシアの戦争。ロシアの南下政策に対して日本は英米の支持の下に強硬政策をとり開戦。日本軍は旅順攻略奉天会戦日本海海戦で勝利を収めたが、軍事的財政的に限界に達し、ロシアでは革命運動の激化などで早期戦争終結を望み、両国は米大統領セオドア・ルーズベルト(26代大統領:1858-1919) の勧告をいれて、1905(明治38)年9月ポーツマスで講和条約を締結した。
「後藤新平像」まで案内してくれた似島学園出身者の方に、レンガ造の煙突がみえるでしょうあれは旧・火葬場煙突ですと教えていただいたので、島北側をぶらり散歩するとき浜辺に降りたり、道路上から撮影しました。
09.04 .24.裕・記編集

09.03.07.撮影
広島市南区似島町長谷 (似島学園の先) 

09.03.07.撮影

09.03.07.撮影

09.03.07.撮影

09.03.07.撮影
下部には灰出し口の跡もみえました

09.03.07.撮影

09.03.07.撮影



軍都・廣島関連施設戦跡」編



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旧第一検疫所遺構
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 「(南区)似島」編





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