(両延神社)奉納絵馬

  安佐北区亀山南の両延神社に奉納されている“絵馬”をこの頁で取り上げました。
天保15(=1844))年と 明治7(1874)年の奉納絵馬に目が行きました。
天保年間の絵馬は作者(絵師)がわからないかとみましたが(わたしには)読み取れませんでした。
明治7年奉納の絵馬は『高野村敵*討』と読め、(明)治四年辛末二月■と小さな字ですが読めました。絵馬の中の図に村上行造、村上六郎、が(絵馬上部で)斬りつけている所で、複数人が争っているようでした。
*敵の字の右側が欠でしたので辞書を引くとテキでした。
日本最後の「高野の仇討ち」(家督相続争いと勤王佐幕などが絡み合った事件だそうです)
1871(明治4)年2月30日※のことでした。
話は、1862(文久2)年の播州赤穂にさかのぼります。
師走の9日夜、藩の執政・森主税と参政・村上真輔(保守派・佐幕派) が、自称・勤王派の足軽・西川邦冶ら13人に暗殺されました。この年、坂下門外の老中安藤正信襲撃、寺田屋騒動、将軍家茂と皇女和宮の婚儀など、くずれ行く幕藩体制をめぐって国中の動揺が続いていました。二万石の小藩・赤穂の森家が、時代の波に揺さぶられのも当然です。高野山道の死闘は、村上真輔の遺児が西川一味に復讐した「仇討ち」でした。
当時といえども私闘はお家のご法度で、まして重臣殺しは大罪でした。ところが西川らは罪を許されたばかりか、村上一族が逆に閉門・追放の目にあったのです。藩内の勢力争いが絡んでいたのでしょう。遺児らは、この時仇討ちの決心を固めたといわれています。村上家の再興が認められたのは、1868(明治元)年でした。
今度は、西川一味の処置に困った藩が、彼らを藩の墓所・高野山釈迦門院の守り役に任じました(∵高野山は犯罪者であっても生命の安全が保証されていました)。1871(明治4)年2月14日出発と決まりました。村上一族はこの機会を待っており、高野街道を詳細に調べ「報復の地」を捜し続け十分な手配りをしてから待ち伏せました。
西川の一行(6名)がやってくると村上方(8名)は通路をふさぎ名乗りをあげて抜刀しました。ただちに敵味方入り乱れての激しい斬りあいとなった(が西川一味6名は全員討ち取られました)。宿願を達した村上方は、ただちに直轄の五條県庁(奈良県)へ自首しました。
そしてこの事件が直接の原因で1873(明治6)年2月に(通称)「仇討ち禁止令」※が出されました。なお、村上方の処罰は、一審で全員死罪でしたが、最終的には禁固10年などの判決を受け、全員が自由の身になったのは1876(明治9)年でした。
                    参考:結城辰夫著 史跡を訪ねて「高野の仇討ち」より
村上側
(8名)
三男(池田農夫)、四男(村上四郎)、五男(村上行蔵)、六男(村上六郎)、
助太刀(水谷嘉三郎、赤木俊三、津田勉)、見張役(大久兵助)
西川側
(6名)
西川邦次、八木源右衛門、吉田宗平、田川運六、山本達也、山下鋭三郎
※1 日本では明治5年12月2日(1872年12月31日)まで太陰太陽暦を採用していたため、西暦とはずれが生じる。
※2 太政官布告第37号:復讐ヲ嚴禁ス(ふくしゅうをげんきんす)明治6(1873) 年2月7日

人ヲ殺スハ國家ノ大禁ニシテ人ヲ殺ス者ヲ罰スルハ政府ノ公權ニ候處古來ヨリ父兄ノ爲ニ讐ヲ復スルヲ以テ子弟ノ義務トナスノ風習アリ右ハ至情不得止ニ出ルト雖トモ畢竟私憤ヲ以テ大禁ヲ破リ私義ヲ以テ公權ヲ犯ス者ニシテ固擅殺ノ罪ヲ免レス加之甚シキニ至リテハ其事ノ故誤ヲ問ハス其理ノ當否ヲ顧ミス復讐ノ名義ヲ挾ミ濫リニ相搆害スルノ弊往々有之甚以相濟事ニ候依之復讐嚴禁被 仰出候條今後不幸至親ヲ害セラルヽ者於有之ハ事實ヲ詳ニシ速ニ其筋ヘ可訴出候若無其儀舊習ニ泥ミ擅殺スルニ於テハ相當ノ罪料ニ可處候條心得違無之樣可致事

天保の絵馬と云うことから、狩野派の絵師かなと思いながらみたのですが、名前さえ読めませんでした。
振り返ると明治7(1874)年の絵馬でした、江戸時代の戦の場面かなと思いましたが右下の人物ズボン(洋服)を着ているようでした。題が読みとれましたが仇討ち、村上兄弟の仇討ち?と帰宅しました。
この両延神社の奉納絵馬から「高野の仇討ち」のことを(わたしは)はじめて知り、明治6(1873) 年になって仇討の禁止令が出たという事を含めてこの絵馬から、日本の明治時代の歴史の一端を知ることが出来ました。
100年以上も前に描かれ、拝殿の下と云うものの外部であり気候の影響を受け経年変化でしょうが、残念なことに所々描かれた絵が消えかかっていました。
11.08.05.裕・記編集

11.06.25撮影
広島市安佐北区亀山南3-18-40   両延神社

11.06.25撮影
天保十五(=1844))甲辰季秋  龍山■■

11.06.25撮影
奉掛御広前   伊勢本宮同行連(24名)  明治七(=1874)年戌四月



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