府中村水害記念碑

  安芸郡府中町宮の町の“えの宮公園”に建立されている「府中村水害記念碑」です。
















































































































































































































大正15(1926)年9月11日(当時)府中村でも大水害がありました。
午前1時頃には村内の各河川が満水となり、午前2時頃には各地で被害が出始め、午前3時頃には各河川に架かっている橋が全て流され、午前4時ごろには堤防が十数か所にわたって決壊、耕地のほとんどが浸水し土砂・流木が流れ込み、このため家屋や人的な被害が出ました。午前5時過ぎに雨は止み始め、この頃から青年団・軍隊などの救援活動が本格的に始まり、午前6時過ぎには一面の水が引きはじめ、午前7時には天候が回復し、晴天となりました。
被害について碑文に刻まれていますが、『芸州府中荘史』にも記録され、そちらでは、流出全壊家屋30戸、半壊・半埋没家屋90戸、浸水家屋239戸、浸水した耕地216町歩(約2.14ku)、死者3名、負傷者2名、堤防決壊25ヶ所 、道路決壊30ヶ所となっているそうです。
正木 亮 (まさき あきら:1892-1971)
検察官、法学者、弁護士。佐伯郡玖波村(現・大竹市)出身。東京帝国大学法科法律科卒業。被爆者。
1921(大正10)年司法省監獄局入り。1935(昭和10)年大審院検事。1943(昭和18)年司法省刑政局長。1945(昭和20)年広島控訴院検事長。
戦後、1946(昭和21)年名古屋控訴院(現・名古屋高等裁判所)検事長、公職追放により退官、 弁護士となる。1955(昭和30)年「わが国の死刑存置論は欺まん的な刑法理論の上にある」と「刑罰と社会改良の会」を設立。死刑廃止論を社会運動として展開する。
復旧作業から河川改修作業には数年かかり、完了したのは、1927(昭和2)年頃であったそうですが、この水害碑の建立は1944(昭和19)年となっています。
敗戦も色濃くなった時期に建立されたこと、碑文の中に聖恩(せいおん:天皇の恵み)という言葉などを使っていることからみて、水害を国難と重ね合わせ戦争遂行を鼓舞する意味もあったのではと(わたしは)思いました。
(同じ時の水害での畑賀村水害碑の建立は1930(昭和5)年であることをみてもそう思ったのです)
資料でわが町の畑賀村水害碑、中野村水害碑を調べているときにこの府中村の水害碑のことも知り、2008年11月になりましたが訪ねたのです。
09.05.22裕・記編集

’08.11.09.撮影
広島県府中町宮の町3-1-20 えの宮公園

08.11.09.撮影

08.11.09.撮影



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