廣島陸軍幼年學校・紀元二千六百年記念碑
安芸郡府中町宮の森の多家神社に建立されている「廣島陸軍幼年學校・紀元二千六百年記念碑」です。
同
窓
生
一
同
平
成
十
五
年
四
月
吉
日
捧
げ
る
た
め
こ
ゝ
に
碑
を
建
立
す
る
發
見
を
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と
し
て
戦
没
者
に
慰
霊
の
誠
を
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爆
の
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火
に
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え
た
肇
國
神
社
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石
柱
廣
幼
関
係
者
が
戦
陣
に
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た
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家
の
守
護
の
重
責
に
任
じ
そ
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間
多
く
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こ
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窓
生
は
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軍
の
禎
幹
と
し
て
皆
克
く
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成
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た
至
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ま
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三
千
三
百
四
十
五
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生
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昭
和
十
一
年
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興
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昭
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二
十
年
に
軍
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一
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校
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た
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廣
島
市
基
町
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三
年
明
治
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旨
に
よ
り
明
治
三
十
年
廣
島
陸
軍
幼
年
學
校
(はつくに)
肇国:
初めにできあがった状態の国。
国家の最初の段階。
広島県文化百選建物編で紹介されている安芸郡府中町の多家神社の宝蔵を見に行った時に、
紀元二千六百年記念(1940年=昭和15年)と刻まれた石柱をのせたまだ新しい礎石の慰霊の文字に目が留まりました。説明版を読むと廣島陸軍幼年學校(現在の中区基町)にあった石柱をここ多家神社に2003(平成15)年再興したことがわかりました。
2008年訪ねたときにこの碑裏面に「広島陸軍幼年学校校歌」板がはめ込まれていましたので、今回追記しました。戦後民主主義教育を受けたわたしにははじめて見る言葉がありましたので辞書で調べてみました。
09.05.21更新
06.08.09. 裕・記編集
06.03.14.撮影
安芸郡府中町宮の森3-1-13 (多家神社境内)
06.03.14.撮影
廣
島
陸
軍
幼
年
學
校
職
員
生
徒
昭
和
十
五
年
紀
元
二
千
六
百
年
十
一
月
十
日
完
成
平
成
十
四
年
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午
十
月
蘆
雪
書
五
四
三
二
一
そ
ゞ
ろ
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躍
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か
な
南
溟
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斗
幾
萬
里
忠
武
の
操
身
に
し
め
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剛
健
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氣
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な
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二
葉
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山
に
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ば
瀬
戸
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朝
凪
水
澄
み
て
丹
き
心
を
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ば
や
清
き
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城
の
空
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吹
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道
に
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そ
し
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敬
神
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深
く
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詔
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畏
み
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荒
男
が
嚴
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た
て
り
我
が
武
寮
大
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松
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遠
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三
千
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翼
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時
や
何
時
醜
の
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楯
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進
み
行
く
武
を
練
る
聲
も
勇
ま
し
く
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の
氣
宇
椈
ふ
べ
し
燃
ゆ
る
血
潮
の
紅
葉
葉
に
散
る
は
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か
潔
し
肇
國
宮
に
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づ
き
て
末
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家
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の
干
城
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と
御
稜
威
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く
練
武
の
地
由
緒
も
深
き
埃
宮
や
廣
島
陸
軍
幼
年
學
校
校
歌
廣島陸軍幼年學校校歌
※
こうこく
皇國
天皇が統治する国。すめらみくに。
しょうちょく
詔勅
天皇の発する公式文書の総称。
いつ
稜威/厳
1)神聖であること。斎(い)み清められていること。
2)勢いの激しいこと。威力が強いこと。
かんじょう
干城
〔「干」は楯(たて)の意〕
楯となり城となって、国家を守護する武人。軍人。例文「君国の干城」
キク
掬
スクう(ふ)。
ムスぶ
。
クむ。両手ですくう。
なんめい
南溟
〔荘子(逍遥遊)〕
南方にある大きな海。
ほうよく
鵬翼
1)おおとりの翼(つばさ)。
2)転じて、飛行機の翼。
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