|
西区己斐の国泰寺に建立されている「赤穂義士追遠塔」です。
※もともと国泰寺は現在の中区に創建されていましたが、1945(昭和20)年8月6日原爆の惨禍で焼失し、
戦後西区の現在地に移転しています(のでこの塔も移設されています)。 |
大正2(1913)年10月に建設されました
。正面「赤穂義士追遠塔」の七文字は、旧藩主浅野長勲(1842-1937)の揮毫です。
この塔石、台石ともに、もと國泰寺境内愛宕池畔の自然石です。
広島築城前あのあたり一面は海であり船路の目標になっていた岩礁だったといいます。 |
何かの資料で、この赤穂義士追遠塔が被爆した後建っているところを見たことがあります。国泰寺境内で被爆した構築物です。 |
(爆心地からおおよそ530mくらい 被爆当時お寺は小町にありました) |
|
|
|
国泰寺跡(愛宕池跡)の頁を編集していましたが、己斐峠近くに移っている国泰寺には行ったことはなかったのです。
大石蔵助の妻・りく、三男・大三郎が広島藩に招かれた経緯やお墓が国泰寺にあって、お寺の移転にともない移築されていることを益田与一氏著の「頼山陽と芸備の人々」を読んでいて知り是非に訪ねなくてはと思ってきたので、彼岸の中日を過ぎに訪ねました。 |
08.04.02裕・記編集 |
|