(国泰寺の) 安国寺恵瓊の遺髪塚
  西区己斐の国泰寺に建立されている「安国寺恵瓊の遺髪塚」です。
安国寺恵瓊(あんこくじえけい:1539?-1600)
安土桃山時代の臨済宗の僧。安芸(沼田郡)の人。字(あざな)は瑶甫(ようほ)。
安芸国の竺雲等連(じくうんとうれん=禅僧)に見出され東福寺塔頭(たっちゅう)退耕庵の主となり安国寺を兼帯。
1582(天正10)年豊臣秀吉(1536-1598)の高松城攻めの和議使をつとめてから、秀吉と毛利輝元(1553-1625)の信任をを得て寺領を与えられ、安国寺・東福寺を再興。
1592(文禄元)年文禄の役には従軍僧として朝鮮に渡った。
1598(慶長3)年東福寺224世の席を継ぎ、翌年退耕庵を造営し、さらに南禅寺の公帖(=禅宗五山の住持の辞令)を受ける。
1600(慶長5)年関ヶ原の戦いが起こると、毛利氏とともに石田三成(1560-1600)に応じて徳川家康(1542-1616)と戦ったが敗れて京都・建仁寺に潜んでいるところを捕らえられ同(1600)年10月1日京都六条河原で斬首され、三条河原に梟首(きょうしゅ)された。
国泰寺設置の由来板に、1594(文禄3)年豊臣秀吉が朝鮮から帰国、霊仙寺を大改築して大伽藍を創建し臨済宗安國寺としました。従って安国寺恵瓊は当寺の開基となります。と記述してあることから安国寺恵瓊の遺髪塚が建立されたと思いますが、その塚に恵瓊の遺髪が納められているかはわたしにはわかりません。この遺髪塚も、国泰寺が戦後この地に移転する前までに建立されていたもので、被爆した遺髪塚であろうとわたしは思っています。
 08.08.26裕・記編集
   関連頁:(不動院)安国寺恵瓊遺髪塚

08.03.22.撮影
広島市西区己斐3-975-5 国泰寺

08.03.22.撮影



「広島ゆかりの人たちのお墓」編



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