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西区己斐の国泰寺に建立されている「豊臣秀吉遺髪塚」です。
※豐太閤(ほうたいこう:豊臣秀吉(の敬称)の遺髪塚。 |
豊臣秀吉(とよとみひでよし:1536-1598) |
安土桃山時代の武将。尾張中村の人。織田信長の足軽木下弥右衛門の子。幼名日吉丸。初名木下藤吉郎。のち羽柴秀吉。織田信長に仕え、軍功によって重用され、筑前守となる。
本能寺の変後、明智光秀を討ち、四国・九州・関東・奥羽を征して1590年天下を統一。この間、1585年関白、翌(1586)年豊臣姓を賜って太政大臣となり、1591年関白を養子秀次に譲り太閤と称した。また、検地・刀狩りを実施、兵農の分離を徹底し、幕藩体制に至る基礎を築いた。文禄・慶長の役で朝鮮に出兵、戦果があがらないまま、伏見城で病没。 |
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國泰寺という寺號の由来は豊太閤の法名「國泰寺殿前太閤相國雲山俊龍大居士」によるものですと、国泰寺設置の由来板に記述してあることから国泰寺に豊臣秀吉の遺髪塚が建立されていても何ら不思議ではありません。
しかし、徳川の時代になってその塚の存続が保たれたのかなとは思いますが、赤穂追善碑が大正時代になって建立されていることなどから後年の建立かなとも思うのですが。この国泰寺がいまの中区にあった時代には建立されており、1945(昭和20)年8月6日被爆した遺髪塚ではないのかともわたしは思っています。 |
08.08.25裕・記編集 |