民話: 可児才蔵のみそ合戦
  東区東山町の才蔵寺に関して伝わっている民話「可児才蔵のみそ合戦」についてこの頁で取り上げました。
可児才蔵のみそ合戦
いまからおよそ400年前安芸国城主・福島正則の家来に可児才蔵という槍の名人がいました。
ある夏洪水で堤が切れ、川水が城の濠に溢れ、城の石垣をだいぶ壊しました。ほってはおけないので正則は、すぐさま石垣の修理にかかりました。ところが幕府の許しを得ていなかったので幕府に咎められ、安芸国から追われることになりました。しかし、幕府の処置を恨みに思った可児才蔵ほか六十人の侍は、矢賀の小さな城に立て篭もったまま動こうとはしませんでした。
それを知った新しい城主・浅野長晟は家来に命じ矢賀の城を攻めさせました。その兵が城の石垣を登りはじめると才蔵たちは石垣の上からグラグラと煮えたぎったみそ汁をぶっかけました。そのため兵たちをヤケドさせられました。そこで、浅野の殿様は、今度は兵糧攻めにしようと、幾日も城をとりまきました。段々と貯えを失ってきた時、才蔵はひとつの思案を立てました。それは、城山のお地蔵さまに笹の葉を供えそれに味噌と米をのせておけば、どんな願い事も叶えられるという噂を近郷近在に流すことだったのです。城の者はかわるがわる忍び出て、その噂をふりまいて歩きました。その噂は噂をよび、城山のお地蔵さまには次々と味噌や米が供えられました。こうして、才蔵たちは長い間、城を支えることができ、篭城の侍たちは、何処へともなく落ちのびることができました。
地元の人たちは、やがて可児才蔵を真言寺に祀りそのお寺を才蔵寺と名付け、お地蔵さまはそのお寺の境内に移し「みそ地蔵」、可児才蔵を「笹才蔵」と呼ぶようになったそうです。
みそ地蔵には、いまは多くの受験生がお参りし、みそ玉をお地蔵さまの肩に供えています。「ミソをつける」肩代わりをしてもらったり、お地蔵さまの脳みそを借りたりするためなのだそうです。
才蔵寺の頁を編集していましたが、この「民話:可児才蔵のみそ合戦」は知らなかったのです。
可児才蔵を中国新聞社発行「広島県大辞典」で調べた時に、この民話「可児才蔵のみそ合戦」がある事を知りましたので、広島県大辞典を参考にしてこの頁を編集しました。
野外彫刻として可児才蔵像の頁として編集しようとはじめは考え、作者がわからないかと像の周りをみましたがサインなどを(わたしは)見つけることができませんでしたので、編集方針を変えて、民話「可児才蔵のみそ合戦」にしました。
10.06.08裕・記編集

05.04.16.撮影
広島市東区東山町1-11  才蔵寺

05.04.16.撮影

10.05.27.撮影

05.04.16.撮影

10.05.27.撮影
可児才蔵(かにさいぞう) 別稱:藤原吉長
(1553〜1613*)
才蔵像は、関ヶ原合戦図屏風(彦根美術館蔵)その他の史料を参考として再現しました。青年期は戦国武将として活躍、晩年は仏門に入り、この地に開山庶民の諸救済に専念、その徳行は後世に語り伝えられ、現代では学業をたすけるミソ地蔵として親しまれています。ここに才蔵尊像を建立して英姿を偲び、併せその遺徳を仰ぐ。
2004(平成16)年11月24日 才蔵寺住職 笠継智光 合掌



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