伴資健翁之碑

伴 資健 (ばん すけゆき:1835-1913)
  天保6(1835)年11月12日廣島中ノ町広島藩士太田三郎右衛門敬信の二男に生れる。幼名通称保之丞、後十郎兵衛と改め資知を名乗る。明治2(1869)年更に資健と改名。
安政2(1855)年12月叔父伴勇次郎資道の家に入る。万延元(1860)年3月家督をつぎ、文久2(1862)年12月御奥詰となる。文久3年7月若殿付御奥小姓となる。慶応元(1865)6月年御目付役となり、征長幕軍敗戦による民情安定のため片岡太記の軍の軍監として佐伯郡に出張、8月帰陣、11月洋学生50人を引率して江戸詰となる。明治元(1868)年1月洋学生を引率して帰国、4月御勘定奉行となり、次いで町奉行格御米銀扱郡中引受勤向是迄の通及び郡奉行兼帯となる。明治2年3月御側御用達役となる、7月勘定奉行であったため大阪弾正台に糺明される。明治四年12月准流10年に処し士籍を免ぜられて大阪にて閉門。明治6年10月赦されて帰国。明治10年12月広島県第八大区長拝命。明治11年11月広島県賀茂郡長拝命。明治15年賀茂郡長辞職。明治16年4月浅野家家扶となる。明治18年7月浅野家家扶辞職。明治22年11月28日広島市長に就職。明治28年4月明治天皇より白縮緬一疋を賜う、10月日清戦役の功により勲六等瑞宝章下賜、次いで日清戦役従軍記章下賜、11月27日広島市長を任期満了退職。明治29年4月30日再度広島市長に就任。明治35年1月フランス共和国よりシュウリユード・ローガン・ナショナル・ド・レジョンドノール勲章受領、4月30日三度広島市長に就任、勲五等瑞宝章授与される。明治39年4月日露戦役の功により勲四等旭日小受賞および金1500円を賜る、8月30日広島市長辞職。大正2(1913)年1月28日広島市上柳町の自宅にて病死、79歳。特旨をもって従六位に叙される、市内田中町興徳寺に葬る。
資料をみていると、常夜燈・墓石・五輪塔・石碑などが被爆したものと記述がありました。
爆心地から≒1800m   被爆当時町名も二葉の里
2005年交流ウォークのときに教えていただいたのです、この伴資健頌徳碑は明星院本堂横に建立されています。
以前、赤穂義士の木彫や被爆樹木があることで撮影にはきていたのですが、この碑は知りませんでしたし、伴市長のことも知らなかったのです。(碑文の原文は新修廣島市史に掲載されています)ここでは大要で紹介掲載しました。
この碑は被爆した石碑です。
08.10.10更新   06.02.11裕・記編集

’08.09.01.撮影
広島市東区二葉の里2-6-25 (明星院境内に建立)

’05.11.03.撮影

’08.09.01.撮影
広島市東区二葉の里2-6-25 (明星院境内に建立)

’05.11.03.撮影
伴資健翁之碑
大正8(1919)年4月3日建之
従一位勲一等侯爵浅野長勲 題額
陸軍少将従三位勲二等 佐藤正 撰文
廣島高等師範學校教官 稲田 斌
(伴資健の)業績部分だけは原文で
整理小學校、以鞏兒童教育之根本、完成上水道、以定市民衛生之基礎、其他奉安廣島臨時帝國議会便殿於比治山、盡力於赤十字社愛國婦人會、或開鑿下水道、經營比治山江波山二公園、
伴資健市長在任期間
第二代市長 1889年11月-1895年11月
(明治22年-明治28年)
第四代市長 1896年4月-1902年4月
(明治29年-明治35)
第五代市長 1902年4月-1906年8月
(明治35年-明治39年)
(在任中の主な出来事)
1894(明治27)年8月1日 「日清戦争」宣戦布告。
1894(明治27)10月18日〜7日間「第七回臨時帝国議会」が西練兵場に造られた木造平屋建仮議事堂で開催された。
1899(明治32年)1月1日 広島市水道給水開始。
上水道の整備に当り安芸郡牛田村神田(現東区牛田新町)を水源とする軍用水道の市への無償貸与に成功した。



広島ぶらり散歩「その他」編


歴代広島市長



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明星院
(境内にある)被爆樹木
      
イチョウ、ソテツ、マツ
(本堂内陣)赤穂義士木像
(境内に建立)伴資健翁之碑
(境内に建立)香川南浜先生碑
(境内に建立)景友碑(串本康三碑)






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