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東区二葉の里の明星院に建立されている「香川南浜先生碑」です。
※本堂の横に建立されていましたが、2014年みると東側露地の方に移設されていました。 |
香川 南浜 (かがわ なんぴん:1734-1792) |
広島藩儒者。折衷学者。名はジン臣、字は爾公または忠夫。通称:修蔵。南濱(南浜)または蕉雨堂と号す。
幼少期より学問を好み、博覧強記で、経史諸子百家はもとより国書にも通じていました。はじめ程朱学を学び、京都遊学後は古訓をとなえ、訓詁・音義を正し、経済実学を持って人材を育成しました。1778(安永7)年再び上京。のち伊予松山藩主から招かれましたが、弟子に引き留められ禄仕を断念して大手町に家塾・修業堂を開きました。1781(天明元)年三十人扶持で広島藩儒に登用され、翌(天明2)年開設された広島藩学問所で古学を講じました。1785(天明5)年藩の学制が程朱子に統一されたため、常勤を止められ、1789(寛政元)年の学問所師弟分けの後は藩主浅野重晟に賜わった屋敷に再び修業堂を開き古学教育を行った。
著書は二十数種あったといわれますが、ある日、仁保の海岸でことごとく焼き棄てたそうで、広島藩の程朱学に統一された教育方針に抗議する意味があったのではと云われています。現存の著述は「秋長夜話」「蕉雨堂酔談」の2つの随筆のみだそうです。 |
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資料をみていると、明星院には常夜燈・墓石・五輪塔・石碑などが被爆したものと記述がありました。 |
爆心地から≒1800m 被爆当時町名も二葉の里 |
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昭和10(1935)年建立のこの碑は被爆した石碑ということがわかりました。
また、題字を書いた浅野長勲(広島藩最後の殿様、1842-1937)の晩年の書ということも併せてわかりました。
ある意味藩の教育方針に反したところがあった香川南浜であったが、その才能を表面だって支持することはできなかったのでしょうが、(明治になってからは既に藩主ではなかったとはいえ)最後の殿様が碑の題字を揮毫した事は、香川南浜の才能を認め惜しんだということだろうとわたしは思いました。 |
2014年暮れ久しぶりに立ち寄りお参りした後、本堂横の「伴資健翁之碑」「香川南浜先生碑」「景友碑」を久しくみていなかったなと行ってみたのです。そこには並んでいた碑がなかったのです。
そんなに広くない境内をみましたがなかったので隣の墓苑の方に移設されたのかなと思って路地に出た時みたのが新しく並んで整備されていた上記碑たちでした。 |
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碑の移設に伴って、“香川 南浜”の説明板が設置されています。
設置の説明板には、著書として『・・・「毛詩十考」「左氏伝考」「史記辨解」「六経解義」「論語仁考」ほか二十巻以上にも及ぶ』とあり、参考にした資料にない記述がありました。
他に、『寛政四年(1793年)五十九歳にて歿す。・・・』とあります。
しかし、寛政4年は1792年です。
わたしが参考にしている資料には上記のように1734-1792とあります。 |
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16.12.10.再編集 08.10.12裕・記編集 |