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廿日市市宮島町西大西町の大元園地に建立されている厳島合戦ゆかりの「血佛」です。 |
毛利元就の巧みな謀略にかかり、二万余の大軍をこの宮島に進めた陶晴賢は、天文24(1555)年10月1日未明、わずか3千あまりの毛利軍の奇襲作戦にあって忽(たちま)ち総崩れとなりました。
陶晴賢は三浦房清、伊香賀民部らと共に、この大元で陣を立て直そうとしました。追ってきた小早川隆景(1533-1597)は、横手の谷間より羽仁越前守に攻めたてられ一時危うくなりましたが、そこに吉川元春(1530-1586)の援軍が到着し、陶晴賢は乗る舟もなく僅かな家来と共に西の大江浦へと落ちていきました。
この石塔は墓ではなく明暦4(1658)年に建てられた供養塔で(厳島)合戦の後永らく陶方の敗死者の血が流れたと伝えられたため、土地の人は、これを「血佛」と呼んでいます。 |
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厳島合戦(いつくしまかっせん)、厳島の戦い(いつくしまのたたかい)ともいう |
1555(天文24)年、主君大内義隆(1507-1551)を殺して領国を奪った陶晴賢(すえはるかた:1521-1555)を毛利元就(もとなり:1497-1571)が厳島に敗死させた戦い。
毛利氏発展の基となる。陶軍兵力は2万とも3万ともいわれ、毛利軍兵力は4千から5千ともいわれています。 |
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「宮島・厳島神社」編を編集していくうちに厳島合戦の事を抜きにはできないことがわかり頁を編集しました。
対岸の廿日市地区を訪ねたときにその関連の地が残っていることも知ってきたからでもありました。
この血佛は、交流ウォーク関連で訪ねた2007年わたしは、はじめて知りました。 |
2012年撮影していましたので、2015年のいまになりましたがこの頁を再編集しました。 |
15.07.21.再編集 08.01.23裕・記編集 |