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広島市似島に過って建立されていた原爆死没者を弔うために建立されていた「千人塚」です。
※南区似島町字東大谷の似島臨海少年自然の家・資料室にパネル展示がありましたので取り上げました。 |
似島と原爆 |
昭和20(1945)年8月6日広島市は原子爆弾により壊滅し、都市としてのはたらきを完全に失いました。似島は爆心地から8Km余りと離れていたため家の壁が崩れ、ガラスが割れ、棚の物が落ちる程度の被害でした。しかし、通勤者・通学生・私用で市内に行っていた人のうちにはかなりの即死者や負傷者がありました。
被爆当日、午前10時頃から市内の負傷者が続々と船で似島へ運ばれ、検疫所や似島説教所に収容されました。収容作業は8月6日から25日まで続き約一万人の負傷者が収容されました。しかし、船で運ばれる途中や収容先で死亡する人があいつぎました。 |
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このような状況下にあって、似島の人々はこぞって救護活動に従事し、ことに町内の婦人たちは全力を傾け、一人の生命もおろそかにしないように献身的に立ち働きました。 |
似島は日清戦争以後、陸軍の検疫所など軍施設として使われた歴史があり、敗戦まで島の南側(自然の家がある東大谷地区をはじめ、大黄地区、長谷地区など)は一般市民の立ち入りが禁止されていました。
原爆投下直後、救護所が作られ、被爆された方がたくさん似島に運ばれてきたことから、島自体が原爆とも深いつながりを持っています。
そのようなことからも、自然の家の2階には、原爆資料館から貸与された被爆資料を展示されています。 |
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おじさんの「原爆記」に似島の記述があるのです。
次男・嘉孝さんは、当時・広島市立中学校1年生で西地方町方面で建物疎開作業中被爆し(たと思われ)行方不明になり、おじさんは似島に運ばれたのではと8月11日、宇品にいって似島に収容した人名を調べてもらったそうですがわからなかったとあることから、原爆記を読んだ時、似島に多くの被爆者を収容したことを、(わたしは)知ったのです。
混乱の中だったのでしょうからわからなかったということは、嘉孝さんも運ばれたのかもしれないし、此の地で亡くなったかもしれないと(わたしは)思い、千人塚のパネルしかありませんがこの頁を編集しました。 |
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資料で原爆慰霊碑が建立されていることを知り、似島を訪ねましたが、その慰霊碑の(前身となる)千人塚はいまは、資料でしか知ることはできません。
(似島)慰霊碑は頁にしていましたが、千人塚の画像がなく頁としては編集できていませんでした。
似島少年自然の家を訪ねたときに、資料室で千人塚他のパネルをみましたので、撮影しこの頁を編集しました。 |
2012年2月になって訪ねた平和記念資料館・東館で『2011年度第2回企画展(2012年2月3日〜7月9日)「広島、1945-写真が伝える原爆被害-」』が行われていました。展示のパネルの中に、千人塚のパネルがありました。似島の似島臨海少年自然の家・資料室でみたものとは違う構図の写真もありましたので、(フラッシュを焚かずに)撮影し、この頁を更新しました。 |
12.02.16更新 10.04.02.裕・記編集 |
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10.02.09展示パネル撮影 |
広島市南区似島町字東大谷182 似島臨海少年自然の家・資料室展示 |
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10.02.09展示パネル撮影 |
展示パネル「千人塚」 撮影:菊池俊吉氏 |
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似島に運ばれ、手当てのかいなく亡くなった被爆者の供養のため、1945年(昭和20)年8月25日ころ当時の弘岡検疫所長の命で「千人塚」と墨書された供養塔が建てられ、亡くなった方の遺骨を埋葬していました。
1947(昭和22)年広島市は防空壕等に土葬されていた遺骨を集め(当初の)千人塚から少し海岸よりの所へ約3mほどの供養塔を設けました。1955(昭和30)年供養塔の約1500人の遺骨は平和記念公園の原爆供養塔に合祀されました。
現在は(似島)慰霊碑が建立されるに至り、千人塚、供養塔はありません。 |
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12.02.09展示パネル撮影 |
2011年度第2回企画展「広島、1945-写真が伝える原爆被害-」展示パネル 「千人塚」撮影:菊池俊吉氏 |
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12.02.09展示パネル撮影 |
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12.02.09展示パネル撮影 |
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千人塚(せんにんづか) 似島 爆心地から約10km
1945(昭和20)年10月16日〜17日 |
(似島に)臨時野戦病院が開設され、推定1万人もの原爆による負傷者を収容しました。
似島でも、治療のかいなく亡くなった人が大勢いました。
1945(昭和20)年8月25日ごろ、陸軍検疫所の職員によって慰霊祭が行われ「千人塚」と墨書きされた墓標が海岸に作られました。 |
撮影:菊池俊吉 提供:菊池徳子 |
菊池俊吉(きくち しゅんきち:1916-1990) |
写真家。岩手県出身。オリエンタル写真学校卒業。
1945(昭和20)年敗戦後解散の東方社スタッフは、文化社再建。同(昭和20)年9月文部省の学術調査団のもとで原爆被災地の医療状況を記録映画撮影、スチール写真担当として医学班に属し、10月1日〜10月22日被爆後の広島を撮影しました。 |
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似島臨海少年自然の家・資料室展示の関連資料 |
10.02.09展示パネル撮影 |
展示パネル:第三桟橋から(第二)検疫所をみる左手二階建ての建物が本部。 撮影:菊池俊吉氏 |
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陸軍第二検疫所(現在: 似島臨海少年自然の家あたり) |
1904 |
明治37年 |
検疫所開設 |
1917 |
大正6年 |
ドイツ捕虜収容所開設 |
1945 |
昭和20年 |
被爆者のために検疫所内に臨時野戦病院開設
一万人余の被爆者を治療しましたが、多くの方々が亡くなりました。 |
1965 |
昭和40年 |
平和養老館開設 |
1984 |
昭和59年 |
似島臨海少年自然の家開設 |
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10.02.09展示パネル撮影 |
展示パネル:似島検疫所 撮影:菊池俊吉氏 |
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